煙草とコーヒー、それからハチミツ。
「おはようございます、トムさん。お待たせしました」
5分と経たず静雄が現れて、テーブルに乗った空のグラスに眉を寄せた。
「おはよ」
「誰かいたんすか?」
「んー」
「浮気」
「違ぇよバカ」
本気で言っているわけではないのは口調からわかったけれど、一応強めに否定する。
灰皿に残った吸殻に赤い口紅がくっきりついていて、少し前の静雄なら、これだけでひどく動揺したはずだ。
「ひでぇトムさん。俺というものがありながら!」
顔が笑ってるし。機嫌いいな。
「お前朝飯食った?」
「いえまだ。トムさんは?」
「俺はお前が注文するパンケーキ一切れだけ貰えたら十分」
「またそうやって横着する」
「ほら、注文してこい」
「はい」
嫌がらせなのかハチミツシロップをたっぷりかけたパンケーキとオレンジジュースを持って静雄が戻ってきた。
下の方のまだシロップ被害の少ないところを引っ張って口に入れる。
「そういや、さっきそこで何かの撮影やってましたよ」
「そっか。弟君でもいた?」
「や、見当たらなかったですけど。なんか、存在感のある女が」
「へー」
「何か目が合ったんだけど。女優さんなんでしょうけど、俺名前知らねぇんすよね。聖辺ルリ位しかわかんねぇ。でもあの人どっかで見たことあるような」
静雄は甘ったるいパンケーキにフォークを突き刺して、美味そうに頬張って、首を上に傾ける。ああ、シロップが垂れそう。
冷めてきたコーヒーを飲んで、新しい煙草を取り出す。
今度は火をつける。静雄が食べ終わるまでの一服。
「テレビじゃねぇの、普通に」
「うーん。それもあるんでしょうけど、何か」
「何、好みの女だった?」
「へ?いや、あれ?そうなのか、な?」
「なんだよ、お前の方が浮気者じゃねぇの」
「やっ違いますって!そっかわかった!」
人にフォークを向けるな、危ない。あとシロップ。
テーブルにセットされてる紙ナプキンを一枚とって、静雄の口元を拭ってやる。
「あ、すんませっ・・・てあの女・・・の人!トムさんに」
「俺?」
「あー・・・いや、雰囲気っすよ?なんかどことなくー、なんすけど。似てたっつーか」
静雄は言ってから、あーでもこれって気ぃ悪いっすかねやっぱ、と語尾をすぼませた。
「まぁ、ちょっとは似てるかもな。母親だから」
「あーなるほど、ハハオヤダカラ・・・・・・・・・・・・ってえええ!!!」
だからシロップ。子どもかお前は。
「静雄さん朝からテンション高いなー。俺今のでようやく目が覚めてきた」
サラリーマン二人組がガタンと椅子を鳴らして、そそくさとテーブルを離れて行った。
いや乱闘始まらないから。でもなんかごめん。
「って、トムさん!あの、え、本当の話っすか、それ」
「下手したら30くらいにしか見えないのに傲岸不遜で女王様気質の女でそんな奴にガン飛ばされたのにお前がキレなかったんだろ?」
ガン飛ばした理由はわかる。平和島静雄というただでさえ池袋のブランド名に、彼女なりの付加価値がついたのだ、ついさっき。
「えええええマジですかー。なんで?」
頭がぐるぐるしてます、って顔に描いた静雄が食べるのも忘れて呆然としている。
「なんでって言われても。お前早く食っちまえよ。そろそろ仕事始めるぞ」
煙草を吹かして、携帯で今日の回収先をチェックする。
向かいで静雄は放心状態で、それでもようやくフォークをまたパンケーキの山に突き刺した。
10代の清純派の頃に人知れず子どもを産んだ女は、養育も親権も放り出して芸能界で名を上げた。新人女優の子供を押し付けられた父親はろくでもない男だった。10年ばかり経ってそれなりに力も貫禄も付けた実力派の女優は、ようやく己の産んだ過去の汚点に目を向けた。男は落ちるところまで落ちていて、我が子と言えば虐待児童の見本市のような有様だった。
前科と冗談交じりに称した女の行状はそこでひそやかに発揮され、子どもは一応の保護を受けて。
そこからまた、いくつかの転機はあった。
昔のことはあまり思い出したくないし、忘れていることもたくさんある。
わがままで冷徹な女が一度だけ見せた涙とか。
声を震わせながら幼子のようにごめんなさいと繰り返し、まだ小さかった手をそっと握ったこととか。
それからさらに10年以上が経って、子どもは子どもと呼べないしたたかな生き物に成長し、女は相変わらず若く美しく華やいで、ますます力をつけた。
滅多に会うことはなく、普段も忘れていることが多い。テレビで見かけても、特に感慨もない。
女との関係はごく一部しか知らないことで、静雄にも言うつもりはなかった。
けれどさっき久しぶりに間近でみた女に、わだかまりは殆ど感じなかった。
それどころか、今俺は幸せだよ、と。
伝えたくなったのだ。
だから、大丈夫だと。
静雄はまだショックを受けたような顔で、パンケーキをもそもそと片付けている。
その頭に煙草を持っていない方の手を伸ばし、ぐしゃぐしゃとかき回す。
「トムさん?」
「んー。感謝のキモチ」
「え、何の」
短くなった煙草を灰皿に押しつぶす。
並んだ2本の吸殻。
吸い口に噛み跡が、お揃い。
「キスしてぇな、静雄」
今したら、ハチミツの味なんだろうなぁと思いながら、俺は小声でささやいた。
fin
作品名:煙草とコーヒー、それからハチミツ。 作家名:かなや