hbi
一度、どつぼにはまってしまった帝人の感情は、出口を見つけられず彷徨う。ああでもない、こうでもないと迷うこころは、知らぬうちに臨也の腹に立てる爪の動きに強弱をつけることになっていた。
押しては引いたり。前後にかりかりと、猫が戯れるように動かしてみたり。
それは帝人の意志に反して、臨也を催すには充分なものだった。よからぬ思いを抱いた臨也は、昨日の晩からあれほど求め合ったことをすっかり忘れた声で帝人の名を呼ぶ。
「……帝人くん」
「え?」
帝人が他へ気をとられていたのをよいことに、青年はさっとその手を掴んで引き寄せる。せっかく起き上がった少年の体が数分も経たぬうちに、ベッドのスプリングに抱きとめられた。
「ちょ、臨也さん……!」
「ね、誘ってる?」
「はあ? どうしてそうなるんですか」
「だって昨日の今日だよ」
そう言ってあやしく微笑む臨也のくちびるは赤い。それは絶えず繰り返したくちづけのせいかもしれなかった。
おぼろげに、臨也のくちびるが離れるたび、離れては嫌だとしつこく強請った記憶がある。それでも離れていくくちびるに、自分から吸いついていったのは夢の中の出来事ではない。思い出して少年の頬がカッと朱に燃えた。
「……臨也さんって、いつか刺されて死にますよ」
自分で言っておきながら、再び臨也が刺されることを想像すると、ぎゅっと心臓が縮み上がるような気持ちがした。
池袋の喧嘩人形こと平和島静雄とほぼ対等に渡り合う臨也である、並大抵のことで命を落とすとは思えないが、もしかすると、ということがあるのだ。だいたい静雄相手に入院するほどの怪我を負ったことのない臨也が、かつて刺されて病院に送られたのである。一度目が無事だったからといって、二度目もそうであるとは限らない。
それなのに素直になれないくちびるは、帝人の気持ちに反する言葉を紡ぐ。とても恋人に対してとるような態度ではない。死ぬ、だなんて、嫌がらせにしても使うべき言葉ではなかった。
「それ、今日が誕生日の人に言う? ああ、でも、帝人くんには嬉しいのかも?」
どきんと帝人の心臓が跳ねた。
臨也が自ら口にした誕生日という単語は、知っていながらずっと帝人が口にしなかった言葉だった。今日――五月四日は折原臨也の二十何回目かの誕生日である。
「……どうしてですか」
「だってそれでずっと不機嫌なんでしょ。今だって眉間に皺がよってる」
帝人くん前髪が短いんだから、すぐ分かっちゃうよ。
あんまりそういう顔、外で見せないで。
おれの前だけで見せて。
外では本音の分かりにくい帝人くんでいてね。
立て続けにそう言われても帝人の意識は他へ飛んでいる。前髪を指でそっとかきわけられて、あらわになったまるい額にくちづけを落とされても帝人は無反応であった。それよりも、大きく見開いた目は、臨也の忠告とは思えない忠告よりも気になる一言を大きく映していた。
「不機嫌って……どうして」
「え? そうじゃないの? おれとまた八歳差になるからそれが嫌なんじゃないの」
かちかちかち、とパズルのピースがはまるような音が体の奥から聞こえた。そうか、そういうことだったのか、と帝人は目から鱗の思いである。
ずっと気になっていた歳の差が、三月の終りから五月の頭の間だけひとつ縮まる。七歳差が嬉しくて八歳差になるのが嫌で、それが、ここ最近のムカムカの原因だったのだ!
なんて子どもっぽい理由なんだろう。帝人の大きな目が数回瞬いて、じわじわと潤んでいく。恥ずかしさに、かーっと赤く染まる頬を眩しいものを見るような顔で臨也が見つめていた。
帝人くんのことは何でもお見通し。
言葉にせずとも雄弁に、その赤い目に書いてある。どうにも埋められない八歳差。こんなところでもそれを見せつけられたようで悔しく、けれど、一縷の狂いもなく理解してもらっている事実に胸が熱くなる。
「……もし刺されて、おれが死んだら、いつか同じ歳になって、いつか帝人くんのほうが年上になるね」
「え」
ぱちぱちと瞬いて涙を散らす帝人を見つめる臨也のくちびるは、楽しそうに弧を描いていた。
そのくせに、ふいに目だけが寂しい色になる。長く黒い睫毛の帳の向こう側で、気付くか気付かないか、一瞬。試すように本音を見せてくる。
臨也のそういうところが帝人はずるいと思う。青年は、分かってやっているのだろうか。それとも無意識? 後者だといい。八歳も年下の少年にだけ、こういう顔をこの男は見せるのだと、そう思わせて欲しいから。そして、他の誰にも見せないこの切ない表情を、明るくすることが出来るのも、帝人だけだと確信したいから、少年は刹那の寂しさがよぎった後の青年の顔をじっと見つめた。
「……そういうのは、最後でいいです」
きょとんと瞬いた臨也が、逡巡の後、口にしたのは何とも単純な一言だった。
「何それ、好きってこと?」
「……違います」
首を振りながらの否定は、声があまりにも小さくて、思わずというふうに臨也が笑う。それがはっとするほど柔らかで、見惚れた帝人の頬に血が昇った。
かわいい。好きだよ、とくちびるを寄せてくる臨也に、目を閉じて心の中で答える。
とても大きな意味でいえば、まあ、そういうことになるのだろう。
好きだから、まだまだ離れないでいて。好きだから、もっと傍にいさせて。求めて。
歳が近くなるのは最後でいい。そして同じ年齢になるまでの間、臨也とのことを全部振り返ってさよならを迎えるのだ。臨也に知られようものなら恥ずかしさのあまり憤死してしまいそうな本音だが――つまり、八歳差も含めて臨也の全部が好きということ。
曇り空に太陽があらわれ、隅々まで暖かい色のグラデーションがひろがっていくように、胸のむかつきが消え去っていく。帝人の眉と眉の間の皺もときほぐされる。背中にまわした腕と触れ合う素肌がしっとりと心地よく、胸にあふれた思いは音になって素直にこぼれた。
「……お誕生日おめでとうございます、臨也さん」
だからもう誰にも刺されないでくださいね。
言うと臨也が弾けるように笑う。とても嬉しそうな声だった。