Hitze2〔銀新〕
どんな夜も明け、朝は必ずやってくる。それは喜びに変わる事もあれば、酷く憂鬱にも感じられる。
眠ったというよりは時々意識を失うようにして時間が過ぎていき、新八は朝を迎えた。さして睡眠はとっていないのに、まともに眠れないのか目が覚めてしまった。けれど身体は正直なもので、散々泣いたせいで頭の痛みは治まらず、ともかく身体が重たい。
まだ昼になるには早く、万事屋では身動き一つ音がしない。代わりに外の少し賑やかな人の声だけが飛び込んでくる。
新八はゆっくりと起き上がり、痛む頭を布団に押し付ける様にして考える。此の侭ここで何事もなかったように台所に立って、いつもと変わらない食卓を囲む事を考えた。でも、どうそれを考え様としても上手く出来ず、その事に恐怖すら覚えた。
当たり前の事が当たり前でなくなったその朝、新八は結局だるい身体を引き摺るように起き上がり、何時もよりずっと重く感じた布団を抜け出しだ。
立ち上がり、部屋を見回してみると燦々と窓からの朝日に照らされて、どこも変わらないいつもの薄汚れた部屋だ。殆ど日を遮る役目をしていない窓のせいで、少し色褪せている床も、誰かが付けただろう傷もくっきりと浮かび上がる。昨日の出来事を微塵も感じさせないので、自分の心の置き場がわからない。何もかも全てが日常を取り戻した場所で、ただ一人夜に取り残されたまま。どうして何時も夜って時間は不可思議なまま、何も残さずに明けてしまうのだろうか。
あの熱も、月明かりに照らされていた部屋での出来事も、まるで滑稽で安っぽい三文芝居だ。新八はそう思うと、やはり居ても立っても居られずにその場を出た。
部屋を出て廊下を一歩ずつ歩く度に、後ろが途方もなく彼方になっていく気がする。こんな何もかも放り出したままこの場所を出て、戻って来られるのだろうか。振り返りたいのに、そうすると今度は引き返したくて堪らなくなりそうでそれも怖い。銀さんと、いつもの様に声をかけ、また泣いて自分は何を言うのだろう。それは正に言葉というよりは得体の知れない感情の塊。
「…ぁ」
言葉にならない声を最後に、やはり一度として振り返りは出来なかった。
たった十六歳の自分には、ここを出ても行き着く場所は家しかない。家という以外の場所など何処にもまだ持てはしないのだ。歩きながら、夜が一層現実から遠いのはこの場所のせいでもある様な気がした。夜の街として歓楽街の役割を果たすこの場所は、いつでも夜は賑やかな分、意味を持たない。だから余計に朝になると全てなかったみたいに夜をまた待っている。
いつでも自分はこの場所で、結局家路を帰ることでしか歩いていない。銀さんは、夜何処へ何を求めて出て行くのだろうか。ぼんやりと、そんな事を思った。
「早いのね」
朝、家に帰るというパターンは珍しい。生活サイクルを考えても、一度万事屋に行けば、結局夕方から夜にかけて帰ることになる。朝方戻った新八に、姉は不思議そうな顔でそう告げた。
何か適当な返事を返そうとしたが、それすら面倒だった。というより、まるで気力がわかない。ともかく身体はだるく、億劫だ。
倒れ込むように玄関先に座ると、ここまで帰って来られたのが嘘の様に重力が働いた。
「新ちゃん?」
呼びかけられた言葉に、もう返事すら出来なかった。そして、やっと全ての身体に作用していた不調が新八の意識を奪った。
『熱?』
電話先、自分の言葉に鸚鵡返しで聞き返してきた。電話の相手は、少し不満そうに二度目に同じ言葉を繰り返した。
「そう、熱。…風邪っていうよりはそうね、知恵熱みたいな」
妙は自然と受話器を持つ手を強めていた。電話から伸びるコードの先、相手の感情を読み取ろうと思ったが、声には余り反映されてはこなかった。この男は、ともかく何かを誤魔化す事が上手い。それはその男にとって良くもあり、悪い所でもあった。
「へえ…、そうか」
「何かあったの?」
意識したつもりだったが、やっぱり口からその言葉は責める口調になっていた。帰ってきた弟は、その姿から何か在りましたと言わんばかりで、逆に何一つ本人には聞けはしなかった。赤くなった目を腫らし、泣いた原因を知りたかったがどちらも素直にはもちろん言う気はないだろう。
「………、それは俺に先に言い訳を言わせてくれるってことか?それとも真実と違う話を聞きだすってことか?」
返された言葉に自分で意識してわかるくらいに妙は顔を顰めた。そしてどちらだっただろうかと一瞬思考を走らせたが、それはどちらでも結局大して変わらない気がした。
電話先では沈黙だけが返ってくる。何かもう言うつもりはないというのだろうかと、溜息だけがこぼれた。
「私の大事な弟です」
重要なのはそのことだ。それを伝えて、妙は相手の言葉を待った。しばらくして、苦笑交じり声で銀時が言った。
「わかってますよ、姉上様。こっちはいつもの通り、暇を通り越して閑古鳥が鳴いてる。ゆっくり休んでくれ」
「ええ」
結局、何のことはない電話で切れた。
「姉上」
ぼんやりとした様子で呼びかけられ、妙は新八の横たわる布団の先へ座り込む。そして、ゆっくりとその頭を撫でた。
「心配しないで」
何を心配しなくていいのか、よくわからない。ただ、見つめ返された弟の視線にそう答えるのがいいような気がした。
「バーカ」
受話器を置いた先、ソファーに寝そべった神楽がそう言った。
何を意味するバーカなのか銀時にはわからない。いや、正確にはよくわかりすぎるくらいだったが、それを神楽がわかっているのかどうかだ。
視線を向けたら、神楽はこちらを見ているわけでもなく、じっと正面を睨むように何かを見つめていた。
女は勘が鋭い。
何をわかっているわけでもなく、本質だけを見抜いている。妙と電話している時も、同じような気分を味わった。
いつも子供なまま大人になりきれてないのは、多分他の誰でもない自分だ。
新八の熱は一日で引いた。疲れからくる一過性のものだったのか、一晩寝ていたら体調は戻って、やっぱり心の中にだけ熱が篭る。
収まるところに収まったという、簡単な話だ。
「もう大丈夫そうね」
額に手を当て、妙は笑顔で言った。
そうして自分はどうすればいいのだろうか。不意にそのことを考えると、また涙が零れてしまった。
「新ちゃん…?」
あの夜、きっかけに過ぎなかった友人の何気ない言葉に、自分は間違いなく心が揺れた。曖昧なその関係性が自分には優しく、甘えていた。そう、甘えていたのだ。
だけどどんな気持ちですら、互いの距離を寄せ合うことは傷つくことを避けては通れない。自分の知ることのない銀時を知るのは、彼を傷つけることになったり、自分が傷ついたりするだろう。何より分かりすぎるくらい自分は子供だった。
そのくせなりふり構わないくらいの勢いで、全てを野蛮なまでに剥き出しにしてしまった。
静かなその部屋に、電話が鳴り響く。
確信もないのに、その音に飛びつくように新八は布団から飛び出す。足を取られそうになりながらも、受話器を取った。
「銀さん…?」
探るような新八のその声に沈黙だけが返ってくる。それでも、その先にいるのは銀時だと新八は確信していた。
何をどう伝えたらいいんだろうかわからないけど、一つ確かなのは今にもまた泣き出しそうだ。
作品名:Hitze2〔銀新〕 作家名:マキナ