幸福論
藍の落された憂鬱な空だ。
1日が後数時間で終わる。
今日もマスタが生きていたことに安心する。
同時に、夜の陰りがわたしを不安にもさせる。
マスタを明日も生かして、ないものにしないように、ひたすらに祈る。
不安定と戦うのは得意じゃない。
これまで普通に生きてきて、悩みもそれなりにあったし、苦しい思いだってしてきた。
けれど、この場所にはもっと違う、深くて澱んだ問題が、横たわっている。
それがこの空間と、わたしたちの関係を、不安定にしていると、強く感じる。
マスタ、と、ソファでねむりこむ彼女に声をかける。
机の上には発泡酒の空き缶が、何本か放置されていた。
仕事から帰ってきて、着替えることもせずに、呑んでいたらしい。
ワイシャツにネクタイをひっかけたままだった。
体をゆすりながら再び、マスタ、と呼びかける。
マスタが眉根を寄せて、低く、ううん、と呻いた。
暫くソファに顔を擦りつけて、うだうだとしていたマスタは、携帯を探って、時間を確認すると、重たそうに体を起こす。
起きたからといって、挨拶するわけでもなく、重たい足取りでキッチンまで歩いていき冷蔵庫から取り出したミネラルウォータを煽ると、こちらをちらりと見やることもせずに、シャワーブースへと入っていった。
マスタは、寝起きが悪いというか、寝汚いと思う。
うまく眠れていない証拠だ。
30分ほどして、キャミソールにホットパンツ姿で戻ってきたマスタは、わたしを見て、淡く微笑んだ。
「おはよ、ルカ。」
キスして、と、乞われるままに口づける。
羽みたいな口づけを何度か繰り返して、ゆっくりと、名残惜しげに唇を離した。
マスタが、口元だけでわらって、わたしを見る。
マスタは、よくわらう。
たくさんの作り物と、少しの本物で、わたしを翻弄する。
その眸は、まるでガラス玉みたいに空ろで、それを見分けるのは、大変だった。
見わけたからと言って、なにがあるわけでも、なにかするわけでもない。
わたしは、ただ、傍にいて、求められるまま口づけて、体を差し出すだけだ。
差し出したつもりの心は、いつもマスタの体をすり抜けていくけれど。
ひっそりと、不安定で不穏な空気を纏う室内で、マスタと暮らす。
マスタがわたしを見つけた、そのときから、こうなることは、わかっていた。
不意に握られた、呑みすぎたせいであたたまっているはずの指先は、氷みたいに冷たくて、ルカ、あったかい、と微笑んだマスタがあまりに哀しくて、だから、わかりすぎるほど、わかってしまった。
わたしがマスタと一緒にいるのは愛の証明で、彼女がわたしと一緒にいるのは存在の証明だ。
そのおおきな差が、むなしくて、胸がうめくほど痛むのに、マスタの顔を見ると、そんなことなんでもなくなる。
ひとりきりのとき、また虚しくなるのに、マスタが死なないで、今日もわたしと一緒にいてくれる、そのことがうれしい。
ルカ、とマスタがちいさな声で呼んだ。
マスタは、いつもひとりだ。
いつも、わたしが傍にいることも知らないで、孤独を続けている。
自己愛が強くて、ひとりよがりで、どうしようもなくダメなひとだ。
マスタの冷たくなった指先をあたためるみたいに包み込む。
(だのに、どうしてこんなにいとおしいのだろう。)
ここに存在するのは純粋な愛ではないだろう。
恋でも、憎しみでも、無関心でも、ない。
でも、何かわからない何かが、わたしに向かっていることはわかる。
だから、一生それでいいと、思える。
やわらかな風がカーテンを揺らした。
風鈴が、ちりん、と音を立てる。
マスタが顔をあげてわたしの手を強く握った。
腕を引かれて、強引に口づけられる。
突然、首に手をかけられて、絞めるみたいに仕草で、フローリングに押し倒された。
痛みに顔を歪めたわたしを見て、マスタは一瞬、酷く戸惑ったような困惑しているような驚いたような混乱した表情を見せて、やがて、わたしを、震える手で、抱き締めた。
「ごめんね、ルカ、ごめんね。」
幾度も謝罪を重ねるマスタの背中を撫でる。
なにも言わなかったのは、告げる言葉が見つからなかったからだ。
悲しくて、寂しい。
マスタを赦しているのに、赦す言葉を、わたしは、なにひとつ持っていない。
ゆっくり顔をあげたマスタは、歯が当たるほど乱暴に唇を押し付けて、舌をねじこんだ。
口腔を舐めまわされて、マスタの唾液を嚥下する。
どちらのものともわからない唾液が、口の端をつたって、フローリングにこぼれた。
最後にちゅっと軽く吸うように口づけて、マスタがわたしの上から退く。
荒い息を繰り返しながら、マスタが、わたしの唇の端に残った唾液を舐めあげる。
そうして、ふ、と悲しそうに笑うから、胸がつまりそうになる。
「ルカ、うたって。」
そう乞う、マスタのほうが歌うように、言った。
鼻歌のようにうたったアヴェ・マリアは、彼女を救いたくて、その実、わたしの心を、救ってほしかったのかもしれなかった。
彼女は日の沈んだ窓の外を見つめていた。
カーテンがはためく。
無音の室内で、わたしの歌声と、マスタの呼吸が混じり合う。
「ありがとう、ルカ。」
マスタは、そう言ってくれたけど、笑ってはくれなかった。
いつもそうだ。
うたって、とねだるのに、けして、しあわせそうにわらってみせては、くれない。
いつも何かを考えているような、なにも映していないような顔をして、どこか遠くを見ている。
「わたしさ、ルカのこと、好きだよ。」
数瞬の沈黙の後、マスタが唐突にそんなことを言った。
照れるよりも先にびっくりしてしまって、うまく反応できなかった。
けれど、うれしい、と感じた胸は、次のとき、ちいさくナイフで切りつけられた。
「けど、愛してはないと思う。」
「…うん。」
「わたしはきっと、わたししか愛してない。」
「マスタ、」
「別れようか。」
天気の話でもしてるかのように、自然な口調で、マスタが言った。
マスタの目は、相変わらず窓の外を見つめていた。
なに、言ってるの、と震える声で、返すのが、やっとだった。
「不幸になるなら、ひとりで、不幸になりたい。」
「なんで!」
マスタがこちらを見た。
どんな気持ちでいるのか、まったく見えない表情だった。
今までのどんな瞬間より、マスタが遠い。
「ルカのことが、好きだから。」
「わかんないよっ!」
悲鳴みたいな叫びが喉を裂いた。
さっきまであんな焦がれるみたいなキスをした、わたしたちは、どこに行ってしまったのか、もう姿さえ見つけられない。
「一緒にいても、わたしたちは、ちっともしあわせじゃない。」
「わたしは一緒にいたい。」
「一緒にいたいのと、しあわせなのは、全然違う。」
「マスタ、わたしはマスタといたいの!」
彼女の肩を掴んでゆするようにして、訴えた。
だのに彼女は、まるで悟ったようにやさしくわらって、ありがとう、ルカ、とわたしの言葉を流すだけだった。