幸福論
指先から力が抜けて、彼女の腕を滑った手が、フローリングに触れた。
生ぬるいフローリングの温度に、ぶるり、と震える。
拒絶とは違う。
最初から、なんにもなかったみたいな、そんな、空気だった。
沈黙が、部屋を包む。
お互いの呼吸が聞こえる。
マスタは、なにも言わない。
なにか言いたいのに、言うべき言葉が、見つからなかった。
フローリングの溝を目で追いながら、見つからないまま、口を開く。
「…マスタは、なんにもわかってないよ。」
「うん。」
「わたしがいつも、どんな想いで1日を終えるのか、わかってない。」
「それが全然、しあわせじゃないのは、わかる。」
静かな声で、マスタが、言った。
マスタは、やはり、ひとりきりで孤独を楽しんでいた。
傍にいたはずの、わたしは、マスタにとって、都合のいい、空気だった。
自分の存在を映すためだけに、必要な、空気。
「わたし…わたし、毎日よ、1日の終わりが近づくとね、今日も、マスタが生きててくれて、うれしいって、思うの。」
目の奥が熱くなって、頭がじん、と痺れる。
それでも、いい。
マスタがひとりきりでいるつもりでも、わたしが2人きりで生きていると思えるなら、後はもう、なにもかもさまつなことだ。
最後まで、わたしを愛さなくても、わたしを好きだというなら、わたしはその空気を吸いこんで、生きて、死にたい。
「これが、しあわせと、どこが違うの?」
マスタが息を呑む気配がした。
やがてひとつ、息を吐いて、わたしを映したその眸が、泣きだしそうに、揺れていた。
思わず手を伸べて、マスタの体を抱き締めた。
わたしが欲しくて欲しくてたまらない、わたしだけのマスタを、強く。
「ダメに、なるよ。」
「ならないよ。」
しがみつくようにわたしの背中にまわされたマスタの手が、小刻みに震えている。
「ルカが、ダメになるのが、わたしみたいな人間になってしまうのが、いつも、こわい。」
嗚咽に震える声で、マスタが吐き出したのは、まるでしあわせをキャンディにしてしまったみたいに甘い、叫びだった。
間違わないで、わたしは、こんなにも、あなたのために、しあわせになれる。
「ふたりでいられるなら、ダメになっても、いい。」
マスタは、わたしの言葉に、わななくように一度震えて、それから、ちいさな声で、好きだよ、と、言った。
今日を超えても、相変わらず、わたしは不安定と戦うだろう。
愛とか恋とか、そんな感情さえあやしい、この部屋でマスタと暮らし続ける。
けれど、わたしたちはきっと、どこかに折り合いをつけて、しあわせでいる方法を見つける。
息をするために。
「ルカ、うたって。」
マスタが、わらった。
胸が詰まって、涙が出そうになるのを堪えて、おおきく息を吸う。
マスタがわたしをみつめる。
歌い終わったわたしに、ありがとう、と言ったマスタの表情は、泣きたくなるくらい、あまくてやさしい、ずっと欲しかった、笑み顔だった。
end.