カヌチ異伝 Eternity Yours
二次創作 カヌチ異伝 Eternity Yours
何かが頬を撫でた気がして、アズハはふと、顔をあげた。
飾り窓から入る、午後の陽射しと緩い風が、白い薄幕を揺らしている。
いつの間にか、うたた寝をしていたようだ。
ぼんやりと手元を見たアズハは、ほんの少し、手を震わせた。
「あっ……」
折角編んでいた透かし編みの目が、五つばかりかぎ針をすり抜け、だらしなく解けてしまっている。
アズハはかぎ針を持ち直すと、解けた銀糸をすくいあげ、再び元の目に編み込んでいった。
小さな小さな靴下の形をとり始めたそれを、自身はあまり上手だとは思っていない。
が、いつも忙しい夫が、仕事の手を止めてまで褒めてくれるものだから、仕方なしに作っている。
揺り椅子が揺れ、再び薄幕が踊り――扉を叩く音が、部屋に小さく響き渡った。
「入りなさい」
挨拶と共に、紅茶の用意を持った召使いが入ってきた。
つい先日、雇い入れたばかりだが、態度も物腰も、とても落ち着いている。
アズハは、ゆっくりと立ち上がった。
召使いが、慌てて支えようとする。
「奥様、私がそちらまでお持ちしますから……」
「大丈夫よ、お部屋の中を歩くくらい」
「でも先日まで、ひどいつわりが。旦那様も、気をつけるようにと仰いましたし……」
「ふふっ、皆、心配性ね。でも大丈夫よ。具合が悪い時は、きちんと言いますから」
「御用心くださいまし」
卓上に、暖められた受け皿が置かれる。
手際よく紅茶を入れながら、召使いは思い出したように呟いた。
「そういえば……新王ユナ様が、新しい御世話役を城に招かれたとか」
「新しい?」
「はい。『キマ・ウキネ』と仰る元・学者様……あ」
アズハの美眉に、険が差す。
召使いの手元で、陶器が鋭い音を立てた。
「も、申し訳ありません、奥様」
「……いいのよ」
アズハは目をつぶると、静かに自分の下腹を撫でた。
ここにある命が、今の私の全て。
それ以外のものになど、意味も価値も、何も無い。
そう、命より大事な者等、存在する訳が無いのだ。
眼奥の暗い処から、何かがひたひたと這い寄ってくる。
アズハは、それに言い聞かせた。
大丈夫、大丈夫。
全ては終わった事ですもの。
惜別の痛痒も、脂の浮いた粘つく肌も、喉まで突き込まれた砂の味も、今の私とは無関係――アズハは肩を震わせて、それを再び最奥へと追い返し、厳重に厳重に封じ込めた。
黒き翼の国・タカマハラより、遙か南に位置する、ベリブル大陸。
その中央に位置する学術公国、セントラルアカデミア。
そこは学術に全てを懸ける者達の楽園国家であり、国立総合学術院にて修学した者は『Sv.(サーバント)』の称号を授与され、超国境的・超法規的・超思想的措置の元、あらゆる学術行動を許可されている。
そしてまた、一つの仮説を実証すべく。
国立総合学術院は、神王イズサミの聖骸を探す実証学者Sv.エスドの仮説承認請求に対し、神話理論学者・ヘスクイサと建築理論学者・アズハの二人を招喚。
実証審査を委託し、エスドの待つケメカ砂漠中央の、小規模施設発掘現場へと派遣した。
『逃げろ!』
魔術で平行調律された三つの聴覚を、その一言が貫いた。
撓弾、今の今まで通路として歩いていた空間は、轟音と共に大量の砂がなだれ込み、山麓に切り立つ崖の様になっている。
「アズハが呑まれた!」
舞い上がる砂神楽をかき分け、紺青の作業着に身を固めたSv.エスドが、崖肌に駆け寄った。
「くそっ!」
寸刻遅れてSv.ヘスクイサが、背丈以上もある砂の小山を乗り越えて、その傍らに付き添う。
二人は被っていた防護帽布を外し、未だ砂降る崖肌に触れた。
「息は……まだあるね。運の良い子だなぁ」
エスドが、溜息と共に呟く。
ふん、と鼻で笑って応えたヘスクイサは、手慣れた様子で腰具帯を探った。
火薬を混ぜ込んだ粘土を取り出し、発火の魔術を仕込んだ硝子片をくるむ。
エスドが、目を見開いた。
「おい、発破で出す気か? 冒険は初体験のお嬢様だぜ?」
「ちょっと派手な経験を積むだけさ」
素気なく言い放つヘスクイサに、エスドは苦笑を浮かべる。
しかしそれでもさっと、崖肌から退いた。
手早く、しかし慎重に、作った発破を崖肌に仕込んだヘスクイサも、十分に距離を取る。
と、生き埋めになったアズハの意識が戻ったのか。
エスドとヘスクイサの口腔一杯、喉の奥まで、砂の味が充満し始めた。
頭内の神経節を魔術の糸でつなぐ事により、一人が体験している事象を、複数人が違う事無く、同時に追認できる――学者家業を営む者に、平行調律の魔術は無くてはならないものだ。
が、こいう時は、迷惑以外のなにものでもない。
「うげっ……あいつ、砂を呑んだな? おい、早くしないと窒息だぜ?」
「いくぞ」
鋭く唾棄したヘスクイサは、ひゅっ、と軽く口笛を吹いた。
発破玉を仕掛けた辺りに、再びどばっと砂神楽が舞う。
そしてその向こうに現れた、小さな手。
てきぱきとそれを掘り進めるエスドとヘスクイサが、全身砂まみれのSv.アズハを堀り出すまで、最終的には四半刻もかからなかった。
自ら創造し、名を分け与えた国を護る為、トノベの聖戦で“血刃の戦女神カヤナ”と相討ちになった、“神王イズサミ”。
残された聖骸は、戦後の混乱に乗じて幾つもの手を渡り歩き、各地に奇跡の痕を残しながら、ある時を境にこつ然と消えた。
その奇跡の最終顕現地点であり、聖骸が安置されていると伝わる、ケメカ砂漠中央の古代地下施設。
それは同時期に構築されたとされる施設の中では、取り分け変わった造りをしていた。
階層概念と装飾性を極力排除した、白く輝く壁面と石畳の回廊。
それが緩やかな渦を巻きつつ、最下層の地下空間へとつながっている。
そして、この手の建築物には常識としてある筈の、侵入者排除の為の罠も無い。
いや、罠どころか、回廊のあちこちには、簡単に外部と出入りできる枝道が、これまた理路整然と設置されている。
これは、当時の建築概念では、あり得ない事だった。
飛翔一族の翼は、その神秘性と希少さから常に需要が高く、例え一般階級者の抜け羽一本ですら、非常識な値で取引される。
王族階級“以上”の者の羽ともなれば、ちょっと想像できないような値になるだろう。
だからもしも、この施設がタカマハラのトノベのような場所にあったなら、三日と保たずに、聖骸はバラバラに切り刻まれ、一欠片も残さずに、持ち去られてしまっていたに違いない。
しかし、そんな果てなき強欲を阻むものが、ここには一つだけあった。
有史以来、一度も緩んだ事のない、ケメカ砂漠の猛烈な酷暑だ。
きっとこの施設の設計者も、それを見込んで、この地を選んだに違いない。
そしてその判断は、正しかった。
Sv.エスド主導で実施された、ケメカ政府初の公認実証調査では、発掘区域に到達する以前の段階から、幾つもの干からびた遺体と遭遇した。
中には、盗掘業界では有名な者の遺体もあった。
間違いなく、神王の聖骸を狙った挙句の末路だったのだろう。
何かが頬を撫でた気がして、アズハはふと、顔をあげた。
飾り窓から入る、午後の陽射しと緩い風が、白い薄幕を揺らしている。
いつの間にか、うたた寝をしていたようだ。
ぼんやりと手元を見たアズハは、ほんの少し、手を震わせた。
「あっ……」
折角編んでいた透かし編みの目が、五つばかりかぎ針をすり抜け、だらしなく解けてしまっている。
アズハはかぎ針を持ち直すと、解けた銀糸をすくいあげ、再び元の目に編み込んでいった。
小さな小さな靴下の形をとり始めたそれを、自身はあまり上手だとは思っていない。
が、いつも忙しい夫が、仕事の手を止めてまで褒めてくれるものだから、仕方なしに作っている。
揺り椅子が揺れ、再び薄幕が踊り――扉を叩く音が、部屋に小さく響き渡った。
「入りなさい」
挨拶と共に、紅茶の用意を持った召使いが入ってきた。
つい先日、雇い入れたばかりだが、態度も物腰も、とても落ち着いている。
アズハは、ゆっくりと立ち上がった。
召使いが、慌てて支えようとする。
「奥様、私がそちらまでお持ちしますから……」
「大丈夫よ、お部屋の中を歩くくらい」
「でも先日まで、ひどいつわりが。旦那様も、気をつけるようにと仰いましたし……」
「ふふっ、皆、心配性ね。でも大丈夫よ。具合が悪い時は、きちんと言いますから」
「御用心くださいまし」
卓上に、暖められた受け皿が置かれる。
手際よく紅茶を入れながら、召使いは思い出したように呟いた。
「そういえば……新王ユナ様が、新しい御世話役を城に招かれたとか」
「新しい?」
「はい。『キマ・ウキネ』と仰る元・学者様……あ」
アズハの美眉に、険が差す。
召使いの手元で、陶器が鋭い音を立てた。
「も、申し訳ありません、奥様」
「……いいのよ」
アズハは目をつぶると、静かに自分の下腹を撫でた。
ここにある命が、今の私の全て。
それ以外のものになど、意味も価値も、何も無い。
そう、命より大事な者等、存在する訳が無いのだ。
眼奥の暗い処から、何かがひたひたと這い寄ってくる。
アズハは、それに言い聞かせた。
大丈夫、大丈夫。
全ては終わった事ですもの。
惜別の痛痒も、脂の浮いた粘つく肌も、喉まで突き込まれた砂の味も、今の私とは無関係――アズハは肩を震わせて、それを再び最奥へと追い返し、厳重に厳重に封じ込めた。
黒き翼の国・タカマハラより、遙か南に位置する、ベリブル大陸。
その中央に位置する学術公国、セントラルアカデミア。
そこは学術に全てを懸ける者達の楽園国家であり、国立総合学術院にて修学した者は『Sv.(サーバント)』の称号を授与され、超国境的・超法規的・超思想的措置の元、あらゆる学術行動を許可されている。
そしてまた、一つの仮説を実証すべく。
国立総合学術院は、神王イズサミの聖骸を探す実証学者Sv.エスドの仮説承認請求に対し、神話理論学者・ヘスクイサと建築理論学者・アズハの二人を招喚。
実証審査を委託し、エスドの待つケメカ砂漠中央の、小規模施設発掘現場へと派遣した。
『逃げろ!』
魔術で平行調律された三つの聴覚を、その一言が貫いた。
撓弾、今の今まで通路として歩いていた空間は、轟音と共に大量の砂がなだれ込み、山麓に切り立つ崖の様になっている。
「アズハが呑まれた!」
舞い上がる砂神楽をかき分け、紺青の作業着に身を固めたSv.エスドが、崖肌に駆け寄った。
「くそっ!」
寸刻遅れてSv.ヘスクイサが、背丈以上もある砂の小山を乗り越えて、その傍らに付き添う。
二人は被っていた防護帽布を外し、未だ砂降る崖肌に触れた。
「息は……まだあるね。運の良い子だなぁ」
エスドが、溜息と共に呟く。
ふん、と鼻で笑って応えたヘスクイサは、手慣れた様子で腰具帯を探った。
火薬を混ぜ込んだ粘土を取り出し、発火の魔術を仕込んだ硝子片をくるむ。
エスドが、目を見開いた。
「おい、発破で出す気か? 冒険は初体験のお嬢様だぜ?」
「ちょっと派手な経験を積むだけさ」
素気なく言い放つヘスクイサに、エスドは苦笑を浮かべる。
しかしそれでもさっと、崖肌から退いた。
手早く、しかし慎重に、作った発破を崖肌に仕込んだヘスクイサも、十分に距離を取る。
と、生き埋めになったアズハの意識が戻ったのか。
エスドとヘスクイサの口腔一杯、喉の奥まで、砂の味が充満し始めた。
頭内の神経節を魔術の糸でつなぐ事により、一人が体験している事象を、複数人が違う事無く、同時に追認できる――学者家業を営む者に、平行調律の魔術は無くてはならないものだ。
が、こいう時は、迷惑以外のなにものでもない。
「うげっ……あいつ、砂を呑んだな? おい、早くしないと窒息だぜ?」
「いくぞ」
鋭く唾棄したヘスクイサは、ひゅっ、と軽く口笛を吹いた。
発破玉を仕掛けた辺りに、再びどばっと砂神楽が舞う。
そしてその向こうに現れた、小さな手。
てきぱきとそれを掘り進めるエスドとヘスクイサが、全身砂まみれのSv.アズハを堀り出すまで、最終的には四半刻もかからなかった。
自ら創造し、名を分け与えた国を護る為、トノベの聖戦で“血刃の戦女神カヤナ”と相討ちになった、“神王イズサミ”。
残された聖骸は、戦後の混乱に乗じて幾つもの手を渡り歩き、各地に奇跡の痕を残しながら、ある時を境にこつ然と消えた。
その奇跡の最終顕現地点であり、聖骸が安置されていると伝わる、ケメカ砂漠中央の古代地下施設。
それは同時期に構築されたとされる施設の中では、取り分け変わった造りをしていた。
階層概念と装飾性を極力排除した、白く輝く壁面と石畳の回廊。
それが緩やかな渦を巻きつつ、最下層の地下空間へとつながっている。
そして、この手の建築物には常識としてある筈の、侵入者排除の為の罠も無い。
いや、罠どころか、回廊のあちこちには、簡単に外部と出入りできる枝道が、これまた理路整然と設置されている。
これは、当時の建築概念では、あり得ない事だった。
飛翔一族の翼は、その神秘性と希少さから常に需要が高く、例え一般階級者の抜け羽一本ですら、非常識な値で取引される。
王族階級“以上”の者の羽ともなれば、ちょっと想像できないような値になるだろう。
だからもしも、この施設がタカマハラのトノベのような場所にあったなら、三日と保たずに、聖骸はバラバラに切り刻まれ、一欠片も残さずに、持ち去られてしまっていたに違いない。
しかし、そんな果てなき強欲を阻むものが、ここには一つだけあった。
有史以来、一度も緩んだ事のない、ケメカ砂漠の猛烈な酷暑だ。
きっとこの施設の設計者も、それを見込んで、この地を選んだに違いない。
そしてその判断は、正しかった。
Sv.エスド主導で実施された、ケメカ政府初の公認実証調査では、発掘区域に到達する以前の段階から、幾つもの干からびた遺体と遭遇した。
中には、盗掘業界では有名な者の遺体もあった。
間違いなく、神王の聖骸を狙った挙句の末路だったのだろう。
作品名:カヌチ異伝 Eternity Yours 作家名:澤_