カヌチ異伝 Eternity Yours
光量不足の影が落ち、その顔色は判らない。
が、ゆらりと大きく傾いだそれは、危うく踏ん張ると、一つぽつりと呟いた。
「……行くぞ」
撓弾、跳ねるように立ったアズハの右手が、ヘスクイサの頬を撃った。
「馬鹿野郎っ! お前もあいつも、命を何だと思ってる!!」
「アズハ」
ふらりと揺れた、影が呟く。
「お前はどうして、学者になった?」
再びアズハは、ヘスクイサの頬を撃った。
「それがお前の知りたい事か! 今っ、たった今……私の……お前の仲間が、生き埋めになっちゃったんだぞ!? もっと他に言う事が……やる事があるだろう!!」
影が、首を横に振る。
迷いも無く、決然と。
それが更に、アズハを駆り立てた。
ヘスクイサの胸を、力一杯突き飛ばす。
どん、と鈍い音を立てて、ヘスクイサの長身が、壁に叩き付けられた。
そのまま、ずるずると座り込む。
「そんなに知りたきゃ、教えてやる! 少なくとも私は……私はこんな思いをする為に、学者になった訳じゃない!! 私は……わた、し、は……」
涙が噴き出す。
くっ、と息を詰めたアズハは、無言のままのヘスクイサを置き、光がぼんやりたゆたう方へと歩き出した。
全てが信じられなかった。
命を供して得たものが、何を成すというのか。
命以上に大事なものなど、ある筈が無い。
背後に淀む、仄暗い闇溜まりから、沈鬱な声が響く。
「……お前は学者には、向いてない」
最後の力を掻き集め、アズハは光目掛けて、走り出した。
空の端が、暁色を見せ始める少し前。
冷えきったケメカ砂漠の真中に、初老の男が、一人立っていた。
その両手には、分厚い書類が握られている。
国立総合学術院の承認印が入った表紙には、『ケメカ砂漠の中央地下施設について』とあった。
男は、空を見上げた。
もう直ぐ、あの白いソルが、姿を現す。
あれから随分と時が過ぎたが、ソルだけは、少しも変わっていないと聞いた。
男は冷たい砂地にしゃがみ込むと、傍らに書類を置き、両手で砂を掻き分け始めた。
昔、この砂の下に造られた施設の中で、一人のSv.が死んだ。
その現場から戻った男は、再び図書室に籠り、ケメカ砂漠の中央地下施設を調べ始めた。
頼りはあの時、平行調律の糸を通じて頭になだれ込んできた、あの不思議な象形模様。
眼球が用を成さなくなる最後の一瞬まで、Sv.は、それだけを見つめていた。
あの施設は、一体、何だったのだろう?
同行した新米Sv.が看破した通りの施設なら、何故あんなに多数の“逃げ道”が、設えられていたのだろうか?
やがてあの新米Sv.が、“称号”を学術院に返上、野に下った事を知り、さらに長い時を経て。
別個の書棚に見つけた三種の本が、記憶の象形模様について、一つの事象を言い当てている事を確認した時。
男は筆を取り上げた。
結局、あの新米Sv.の言った通り、あれは“供犠の祭壇”だったのだ。
無垢の優しさと狂爛の嗜虐癖、極端な二面性を併せ持った黒翼の神王イズサミ。
それを強く信奉する一派が、庇護の対価として、あの施設で贄を捧げた。
贄として選ばれた候補者は、あの時の自分達の様に、黒翼の岩戸まで歩いていく。
しかし中には、歩く内に昂揚が醒め、気を変えてしまう者もいた。
通常はそんな事が無いように、薬品で候補者の意志をなくしたり、場合に寄っては力尽くで、贄を捧げる儀式を執り行う。
が、イズサミの優しさが、それを好まぬと判断した設計者は、気を変えた贄が、裏口からそっと逃げられる様、幾つもの逃げ道を設えた。
ただ、中にはそんな逃げ道を全て振り切り、あの岩戸まで、辿り着く者もいる。
そして自ら、祭壇に登る。
ただ一途、どんな誘惑も苦痛も超えて、信じる貴方に全てを捧げる為に。
“バルハラへの道”――死ねばバルハラに逝かねばならない現世に逃げ戻る事を、最後まで拒絶しきり、純粋な意志で自らを供した候補者は、ソルエイサのイミナの元、採光施設で集約された陽光に灼き獲られ、神王の側に、永遠に侍るのだ。
砂はどれだけ掻き分けても、その倍量が流れるように、戻り溜まっていく。
それでも僅かに窪んだ穴底に、男は書類ただ一つを置くと、丁寧に砂を埋め戻した。
これでお互い、少しは楽になれるかな。
男はぽそりと呟いた。
が、同時に悟っていた。
楽になど、なれる筈が無い。
腰嚢から取り出した紙巻きに火を着けた男は、一筋の紫煙をくゆらせ、目を閉じた。
あの時、この砂の下で、象形模様の記憶と共に受け取ったものが、もう一つある。
魔術の糸を伝い通し、目の最奥の、さらに一段底の部分に流し込まれた、膨大な記憶。
それは男の意志の一部と溶け合い、僅かでも気を緩めると、答えを求めて脳裏に鋭い爪を立て、掻き乱し、急き立てた。
何処だ、判らない、何故だ、どうやって、どうして――そうやって、あれから常時、責め立てられている。
時折疲れて、何もかも投げ出したくなる。
しかしそうやって逃げた足の向く先で、図書館に籠り、あちこちの現場に足を運んでいる。
この矛盾した行動も、ある種の“供犠”と言えるかもしれない。
捧げる対象は、勿論、学術。
だとしたら、その見返りは?
――駱駝が突然いなないて、男は目を見開いた。
目の前の砂地は滑らかに広がって、さっき埋め戻した位置すら、もう判らない。
紙巻きを捩り潰し、腰嚢の小瓶に収めた男は、側に立ち尽くす駱駝にまたがった。
ここに来る前に寄った、ヤスナの神話図書館で、ある本を見つけた。
飛翔一族の一人が書き残した、死の概念を論じた本だ。
基本は死に対する蘇生魔術の在り方に関する考察だったが、墓標に関する記述が三項目もある。
ひょっとしたらその中に、聖骸の眠る場所につながる手掛かりが、書き残されているかもしれない。
男は舌先で、唇を舐めた。
早く戻って、確かめないと――空を仰いだ男は、暁光に掠れだした惑星オルタを頼りに、手綱を捌く。
振り返る事は、二度と無かった。
おしまい。
作品名:カヌチ異伝 Eternity Yours 作家名:澤_