無題
無題
空気が張り詰めていた。
というのも、そこは戦場ではなく朱富の店の一室だった。誰と誰の空気が険悪か、ということは言うまでもないことだが、林冲と公孫勝である。林冲は顔のあちこちに引っかき傷を作り、公孫勝は髪や服がボロボロに乱れている。そして、お互いに噛み付きそうな顔で睨み合っているのだ。
「あの二人、今度は何したんですか?」
見かけた宣賛が関勝の袖を引いて尋ねる。
「ああ、まあ、気にするな。多分いつもの喧嘩だ」
「しかし、あの二人は不思議なものですね。お互い喧嘩して、顔も見たくないという顔をしながら相席なんて。仲が良いのやら、悪いのやら」
「仲の良し悪しは置いても、そりは合うのだろうなぁ」
「おい、関勝。聞こえているぞ。下らない話をしているくらいなら、とっとと失せろ」
「おっと、これでは馬に蹴られてしまう。宣賛、行こう。この二人で置いて行っても殺し合いはしないだろう」
「はい」
そう言うと、宣賛は関勝の後についていった。
「全く、とんでもない意地っ張りだな」
「ふん」
公孫勝が不機嫌さを隠そうともせずに、鼻を鳴らす。
「なんだ、何が不満なんだ?」
「別に」
公孫勝が口を尖らせてそっぽを向く。
「拗ねるな。拗ねてるだけじゃ分からん」
「拗ねてない」
「その態度でか。じゃあ何をどうしたいんだ」
「知らん」
「好い加減にしろ。俺だって悪いと思ってるさ。だから、こうして飯を奢ってやってるんだろう」
「うるさい」
「お前が素直に言えばうるさくはしない。俺の気がそこまで長いと思ってるのか?早く言え」
「お前には関係ない」
「ならなぜ俺に当たる。俺に言いたいことがあるんだろうが」
「ない」
「じゃあなんだ、俺に当たってるのはただの八つ当たりか」
公孫勝はすっかり臍を曲げてしまったのか、尖らせた口を窓に向けたままうんともすんとも言わなくなった。
「この野郎」
しかし、林冲はそれ以上強く言えない理由があった。
時は、これより一刻前に遡る。
いつものように黒騎兵の調練を終えたあと、いつものように牧に百里を帰し、いつものように騎馬隊指揮官用の物置、要するに林冲の私物置き場に鞍を戻しに行くと、そこにはいつも通りではない人物がいた。公孫勝である。
しかも公孫勝は開封府での激務による疲れのため物置に林冲が入ってきたことに気が付かず、暗かった為に林冲も公孫勝がそこで寝ているとは気が付かなかった。それが、不運だった。
まず、この物置に置いてあるのは、林冲の馬具ばかりだ。あとは、林冲が百里の小屋で過ごす時の為の毛布が一枚、百里の餌になる秣。そういったものがごちゃごちゃと積み上げられた狭い物置だ。公孫勝は秣の上に丸くなり、林冲の毛布に包まって寝ていた。
一方林冲は、調練で疲れていたため、少し休んでから自室に戻ろうとした。そして、秣に身を投げ出した。
狭い物置の中、不意に二人の人間が、抱きつく形で鉢合わせしたのだ。二人は完全に不意を突かれて、まるで蜂の巣を突ついたような騒ぎになった。無言の戦いがしばらく続いた。闇に紛れていて、公孫勝に利があるとはいえ公孫勝は寝起きのため、思考が上手く回らない。しかも、狭い物置の中では、上手くかわしたり隠れたりということができなかった。
林冲は林冲で、槍を持たない丸腰の状態で見えない敵相手に苦戦していた。
最終的には膂力と体力で勝る林冲が公孫勝を取り押さえたところで、公孫勝が林冲を認識しその場は収まった。
もちろん、それで収まらないものもある。
公孫勝が物置小屋で寝ていたのが悪かったとはいえ、抱き付いたのは事実である。不本意ではあるが、詫びとして朱富の店で奢る、という事になった。
そして、ようやく話は始めに戻るのだ。
「で?なんでお前はせっかく奢ってやった飯も食わない?」
「奢るのがお前の勝手なら、飯を食わないのも私の勝手だろう」
「そんな子供みたいな理屈があるか」
公孫勝は、不服そうに口を尖らせるだけだ。顔を合わせようともしない。
「悪かったな。俺はもう寝るよ」
林冲がそう言って席を立ち、座敷を出ようとした鼻先を掠めて座敷の引き戸が閉じた。鼻先を打たれた痛みで、思わず蹲る。横目で見ると、公孫勝が足で引き戸を思いっ切り抑えている。その顔は相変わらず不機嫌そうだ。
「行儀が悪いぞ、公孫勝」
「まだ謝ってもらってない」
「悪かったって、言っただろう」
「それは謝罪とは言わない。事実だ」
公孫勝が立ち上がり、歩み寄ってくる。鼻の痛みで蹲っていた林冲を、遙か高みから見下ろしている。長い睫毛も、無表情な顔も、こうやって見ると無慈悲なまでに美しく気高く見える。
致死軍には常にこの視点で見えているんだろうな、と林冲はぼんやり考えた。
すると、林冲の肩に公孫勝の足が掛けられた。何を、と思う間もなくそのまま肩を壁に縫い付けられた。細い踵が肩に食い込む。
「さて、誠意を見せてもらおうか」
「おい、公孫勝。冗談が過ぎるだろう」
「冗談?それこそ冗談が過ぎる。たまには虐げられる気持ちも味わってみるが良い」
公孫勝は飽くまでも無表情だった。いつもの皮肉ぶった無表情ではない。冷めた怒りを秘めた無表情である。
やばい。怒っている。
今回の事は直接、怒りの原因になってはいないが、今までに抱いてきた不平不満の引き金になったようだ。
ぐり、と踵が肩に捻じ込まれる。痛みで呻くと、公孫勝は身を乗り出してきた。林冲の肩に掛けた脚の膝に肘をつくように乗り出してきている。もう片方の手を伸ばして、林冲の鼻を摘まんで言う。
「さて、林冲。謝ってもらおうか」
「済まん」
びしっ
物凄い勢いで鼻を摘まんだ指を弾かれて、鼻がひん曲がる思いだ。
痛い。
「誠意を見せろ、と言ったはずだが?」
「っ……」
「また痛い目に遭いたいのか」
今度は薬指の先を親指で抑えてぐっと力を入れた。それを、林冲の目の前で。
「おい、止めろ、失明したらどうする」
「それが嫌なら誠心誠意、謝ればいいだろう」
「おい、待て、すまん、悪かった、暗くて見えなかったんだ、本当に済まなかった、ごめん」
当てられる、と思い切り目を瞑った。
しかし、いつまで経っても痛みはこない。肩に掛けられていた足もなくなっている。
恐る恐る目を開くと、公孫勝は相も変わらずそこにいた。
「それで、全部か?」
目が怖い。
射抜かれるほどの眼光で声も出ない。
ゆっくりと、公孫勝が屈んで顔を近付けてくる。常に光を背負ったままで、顔には陰が掛かっている。公孫勝が手を延ばし、前髪を掴んだ。引き千切られそうなほど、手には力が篭っている。目の中を覗き込むように、公孫勝が顔を近付ける。互いの呼吸が触れ合う。
玉のような肌だ、と林冲は思った。この世の汚れに何一つ触れてこなかったような、そんな肌だ。
前髪を掴む手、それに続く手首や腕、躰、腰。全てが細い。腕に入れた時の、骨ばった小さな躰。低い体温。湿った土の匂い。
そんなことを反芻していると、公孫勝に鼻に噛み付かれた。
「私の目の前で考え事など、良い度胸だな」
度重なる鼻への攻撃である。多分、鼻は真っ赤になっているだろう。
「もう謝っただろう、好い加減見逃してくれよ」
「それが、謝る者の態度か?」
作品名:無題 作家名:龍吉@プロフご一読下さい