【FY】詰め合わせ
無意識下の逢瀬
副都心の部屋はなぜだか落ち着く。
どうしてだろうと考えを巡らせ、単純に居慣れているからだと気付いた有楽町は嘆息の代わりに鼻を鳴らした。
彼がもっと小さく、顔も今よりもずっと有楽町に似ていた「新線」だった頃から、有楽町は副都心の傍にいた。それはひとえに彼が自分の後輩であるからで、傍にいると言ってもそれは有楽町が副都心にあれこれと世話を焼いているだけで、他にこれと言った理由はないはずだ。少なくとも、有楽町はそう思っているつもりである。
今日も今日とて、有楽町は添削を乞われた書類(東急とのミーティング用のものだった)を副都心の部屋で捲っている。ベッドの側面を背もたれ代わりにしてご丁寧に10000系のゼムクリップで留められた薄い紙の束をぺらりと持ち上げていると、胡座をかいた膝の先を白い靴下が通り過ぎていった。有楽町の向かいでやはり胡座をかいていた副都心の足だ。
「おい」
トイレにでも立ったのか思いきやその足が一直線にベランダの方へ向かってゆくと、わざわざ部屋まで赴いてやっていると言う意識のある有楽町としては眉間に皺を寄せずにはいられなかった。
「……ちょ、副都心!」
「どうしたんですか先輩」
白い爪先が木製のサンダルを引っ掛けて、後輩はあっさりとベランダの外へと出て行ってしまう。書類を掴んだまま、サンダルは一足しかないので靴下で後を追って薄く開いたの窓を開け放つと、副都心は器用に首だけ捻って有楽町を己の視界に収めてみせた。
副都心の手は当然のように胸ポケットを漁っていて、少しも経たない内にそこから少しだけくたびれたタバコの箱とライターを引っ張り出した。
予想していた通りなのだがやはり気にくわなくて、右手で書類を丸めて側頭部を強めに叩く。するとライターを擦る手が止まって、ようやく濃茶の瞳が不思議そうに有楽町を見つめ返した。
「いやどうしたんですか、じゃなくって。お前、人がわざわざ来てやってんのにタバコ吸うなよ」
「仕方ないじゃないですか、先輩が書類見るの遅いからですよ」
カチ、と硬い音が副都心の手の中で鳴って、応じるように手元から橙の火が灯る。それは一瞬で消え去った代わりにいつの間にか副都心がくわえていたタバコの先を燃やしていて、漂ってくる独特の香りに意識がほんの少し、逸れる。
別に嫌煙家と言う訳ではない。吸いたいやつは定められたマナーの範囲内で好きに吸えばいいし、愛煙家は肩身が狭い中でよくも自分の嗜好を貫くなとも思う。しかしこの後輩は肝心のマナーがなっていないのだ。一度なんて禁煙の駅構内でふかした事があるし、今だってこれは先輩に書類を添削してもらっている人間の態度ではないだろう。
視界の右から左へ、紫煙が細くたなびいて流れてゆく。有楽町がその流れに逆らって右を向くと、丁度ふっと息を吐き終えた副都心と視線が絡まった。
副都心の目はあまりかわいげのある笑い方はしない。目を細めたってどこかわざとらしいのだ。その分、じっと見つめられるとなぜだか視線を外し辛いのだ。他の者がそうかは分からないが、少なくとも有楽町はそうだった。
だからこそ、気付いていたのに、動けなかった。
副都心がゆっくりと瞬きをして、くわえていたタバコを左手へ明け渡す。ぐっと一気に間を詰めてきた瞳は少しだけ細められていて、下から上へと唇を舐めてきた為か上目遣いに有楽町を見つめていた。
「副都心……?」
「吸ってるとね、たまに口寂しくなるんですよ、今みたいに」
温い風が、顔の右側でタバコの煙を後ろへ後ろへと押し流していく。火を点けておいて勿体ないんじゃないかと有楽町は思ったが、唇の表面でピリピリとひりつくニコチンが判断を鈍らせた。
深く考えては深みにはまってしまうような触れ合いは、副都心が開通して少し経ってから一方的に続いている。その事に文句を言えども一度も拒絶をした事がないのは、きっと毎回彼のタバコの味が有楽町から判断力を奪っているせいだろう。
(あー……そうだ、そう言や毎回そうだ)
触れられる時は、副都心はいつもこんな風にタバコをくゆらせている。それが副都心の中でどんな意味を持っているのかは分からなかったが、彼の好みらしいタバコの銘柄は嫌いな味ではない。自分で吸おうとは思わないが、嫌な香りではなかった。
「そんな訳で先輩、吸うなって言うなら付き合って下さいよ」
口寂しいんですよ、今。
「書類は」
「改善点と問題点は後で聞きます。東急の方々に突っ込まれるのも癪ですから」
まあいいか。副都心は殊勝なんだか逆なんだか分からない事を言ってみせるが、実の所そこまで目に付くような箇所はなかったのだ。それこそ癪な事に、この後輩はそれなりにそつなくこなして見せるのである。
舌先から漂うタバコの香りを嗅ぎ慣れてしまっている自分がいる事に内心で首を傾げつつ、食むように触れてくる唇はただ柔らかくて、有楽町はそっと指先で副都心の左手を弾いてみせた。
ぱたりと二人の間に落ちたタバコを、副都心の履いたサンダルがぎゅっと押し潰す。タバコを弾き落とした手はそのまま熱の残る彼の指に絡んで、ラインカラーのネクタイ同士を触れ合わせるように腕を引き寄せた。
(あー、やばい、書類落とした)
副都心が揉み消したタバコの灰で汚してしまったかもしれない。
だが今は温い風とタバコの匂いがひたすらに心地よくて、有楽町はこいつキス上手いんだよなあ、と全く見当違いの事を考えるのに夢中だった。
(20090821)