孤独な彼との数ヶ月 4
この人形のうつくしさは雪男だけが知っていれば、それで良かった。
「分からなくていいよ」
雪男は、独り言のようにつぶやいた。それが、先ほどからの会話の続きであるのか、思考の延長の一言であるのか、自身でもよく分からないまま。
そして、指をほどき、燐の顔の両脇に手をついて、燐の体を腕の檻に閉じ込める。
見下ろす先の澄んだ深い海のような瞳。
魂を吹き込んで、ようやく戻ったいとしい青。
それを、目を眇めてながめる。
「燐が、僕と同じところまで堕ちてくるのを待つのもいいし、そうじゃなくてもかまわない。結局、僕たちは違う命で、燐は、妙に常識的だからね。分類的には幽鬼に近いけど、一応は悪魔に属する生き物のくせに、どうしてそうなんだろうね。こちらとしては、堕落してくれたら嬉しいけど、期待はしない。でも、誘惑するのは僕の勝手だ」
ねえ、とかれは、まだ、どこか怯えを残す燐にことさらゆっくりとささやいた。
「僕を本当に愛しているなら、仕事のことなんて忘れて、傍にいてくれる?」
先ほどの言葉どおりに燐の心を失墜させようとしている割には、声が、あまりに優しげに聞こえたので、拒み続けることが罪悪であるかのように錯覚して、燐はきつく目を瞑る。
おねがい、とまた、ひとつ、かれの声がゆるやかに咲く。
燐の心を安楽な常識という台から引きずり落とそうと吹き込まれる、その誘惑の声。それは、ゆるゆると遠巻きに絡みつく茨みたいだった。
ここは、気づいたら逃げ場がない茨の茂みだ。
茨に絡めとられたら、二度とかえってこられない。
そう分かっているのに、その声はどこかあらがいがたい響きを持って届く声であり、この茨の茂みのぬしの持つ棘は、ちくちくと小さく、けれどそしらぬ顔のできぬいたみをもって燐のやわらかな胸を甘苦しく刺すのだった。
作品名:孤独な彼との数ヶ月 4 作家名:吉田祐子