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孤独な彼との数ヶ月 4

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「あ、ここ脱字。こっちは誤字」
ちょっと呆れたように言って、雪男が書類を指差す。
おい、おれのご主人様。お前の要求が高すぎるんだよ。
文句ばっかり言うなら、自分でやれよ。
そう思うが口には出さず、燐はばつが悪そうに肩を竦めた。
しかし、かれが怒っていないことに安堵して、ゆるく息を吐く。
「燐に書類整理は、やっぱり難しかったかな……」
慎重に書類の文字を追うかれの顔をこっそり窺うと、燐の失敗をこれ以上咎める気はないらしく、もうこちらをちらりとも見ない。それを寂しく思うような、ほっとしたような心もち……。
燐は喉もかわいていないのに、なんとなく近くにあったグラスを手に取った。
水を飲んで、またコースターに戻すと、氷がカランと涼しい音をたてて、グラスの中でたゆたう。
かれの仕事を増やしてしまったことを反省する気持ちが半分。でも、向いていない書類作成を命じるかれに恨みがましい視線を思わず送る。
じっと見つめていると、雪男がふいに顔をあげた。
燐はさぼっていたことを隠そうと慌てて目を逸らす。
「飽きてきた?」
どこか面白そうに問うてくるかれの方を見遣ると、かれはやさしい顔をして燐を見つめていた。
それに、なんとなく胸が詰まる。かれの目元が優しくたわんでいる、それだけで、なんともいえない幸福を感じるのだ。
「飽きたというか、この仕事が、せきせつじゃないって気がする」
「“ 適切 ”ね。うん、僕もそう思う。燐がデスクワークに向いているとは最初から思ってないよ。でも、仕事を与えてくれって言ってきたのは燐でしょう?」
かれは、くすぐるように燐の耳のうしろを撫でる。
むずがゆいようでいてどこか甘ちょろい落ち着かない気持ちがふくれる。それをごまかすように身をよじって逃げると、かれはあっさり手をひいた。
「言った。言ったけど、なんで事務仕事?おれは、外の仕事のほうがいいのに……」
不貞腐れたように燐が訴えれば、かれは、頬杖をついて燐の顔をまじまじと見つめた。
穴があきそうなくらいの視線に、燐がいたたまれなくなって、視線から逃れるようにそっぽを向く。
ややして、かれは、面白くなさそうに硬い声で言った。拗ねた子供のように、無邪気な棘をさらして。
「燐は、そんなに、僕と離れる仕事がしたいの?」
かれの言葉に燐は慌ててかぶりを振る。
「そうじゃなくて……!」
もどかしいように言葉を探して視線を彷徨わせ、そしてひたりと雪男を見つめる。
雪男の拗ねた顔は、まるきり子供。
愛すべき、大きな駄々っ子。
燐は、ふさわしい言葉を選びえらびしながら、たどたどしく口の結びを緩める。
「おれ……は、もっと自分にあった仕事が、したい。おれだって、ちゃんと、雪男の役に立ちたい」
ふん、とかれは鼻を鳴らした。
「役に立たなくていいよ。無理して仕事を探すこともない。燐に僕から離れる仕事は必要ない、と何度言ったら分かるの?」
聞き分けのない子供が燐であるかのように、かれは燐を叱りはじめた。
迎え撃つと後が面倒だ。だが、燐の口はそれが別の生き物であるかのように、止まることができず思わず言葉を吐き出した。
「お前は、おれのことなんだと思ってるんだよ……ちゃんと仕事も与えずに、はんごろしで………よ、夜だけ役に立てばいいだけのオモチャかなにかなのか?」
「それを言うなら“ 飼い殺し ”でしょ?ちゃんと言えるようになってから使ったら?」
かれは、軽い皮肉を言うと、燐の言葉の内容にはとくに興味がなかったように、手元の書類に改めて目を遣る。
不満げに見つめてくる燐から視線を逸らしながら、雪男は、至極当然のように宣言する。
「恋人でしょ。それ以外に何があるの?」
他の意見があるのなら、心底、聞きたいと言わんばかりの声音で尋ねてくるが、その実、それ以外の意見を受け付けようとは、けっして、していない。それだけは、わりと鈍いほうだと評される燐にでも分かった。
燐は席を立ち、雪男の背後にまわって、椅子ごと後ろからかれを抱きしめた。
「恋人って、いうけど……。お前は、いつも、おれの意見なんてどうでもいいって顔する……」
燐の手におのれの手をかさねて、かれは、ぽんぽんとなだめるように軽く叩いた。
「実際どうでもいいからね」
声は穏やかでやさしいのに、言われている言葉の残酷さに眩暈がする。
「……どうして………?」
呆然と漏れた自分の呟き。
雪男が燐の腕をふりほどき席を立ち上がる。
手にしているものを見て、見終わった資料を本棚に戻しにいくのだと分かる。
こちらを見ようともしないかれに、不安はどんどん大きくなって、いつか押しつぶされそうだ。
怯えて縮こまった肺に必死に空気を取り込みながら、雪男の腕を掴む。
すがるように指に力を込めて、雪男を引き止める。
「どうでも……いい、って……」
そこまでして、ようやくかれは、燐を見てくれた。
しかし、やっと目があったかれの瞳の奥にどろりとした感情を見つけて、なんとなく恐怖する。
説明のつかない恐怖だ。
捕食者に睨まれる恐怖に似ているがそれとも違う。
かれの瞳に宿るのは、狂気などという言葉でも表しきれぬ、もっと暗くて重たいなにか。
執着されている。
それは分かるけれど、かれの気持ちは純粋に愛情と表現するにはあまりに鬱屈しすぎている。
色々な感情が内包された、かれの瞳が、怖い。
その感情を正確に読み取り、雪男はふいに、書類を投げ捨てて、燐に足払いをかけた。
突然のことにがくりと膝を折った燐の体を、頭を打たないよう気をきかせながら床に組み伏せ、馬乗りになる。
燐の頬を、かれの節くれ立った指がいとおしそうに撫でた。
ただやさしくそっと触れられているだけなのに、どうしてか、その手が震えるほど怖かった。
気を抜いたら、なんだか、その手に、命を掴み取られそうな気さえする。
そんな燐の思考を読んだかのように、かれは言った。
「喰らい尽くしてひとつになる、というのも悪くないよ」
雪男は自分の思いつきがとても素晴らしいことのように思えて、ゆるく頷く。
処刑された兄の亡骸を使って作った生き人形。
大勢の聖職者を生贄にして、ようやく本来の魂を吹き込んだばかりだが、そのいとけなさが愛しいばかりだ。
ここにきて、独占の形を変えるのも、まったくもって、悪くない選択肢じゃないだろうか。
「肉も骨も血の一滴も残さない。でも、それは搾取じゃない。好きだからだ。誰にも渡したくないから、大事に自分の中にしまうだけ」
心を占領する狂った思いつきのまま、雪男は燐の首を甘噛みする。ちいさく歯をたてる。
震える手をとり、指と指をからめて。
どこまでいっても満足しない。
違う命だから、肌と肌の間に空気という境界線がある。
質量がほとんどないくせに、まったく邪魔な異物だ。
ああ、愛というものは、けっしてうつくしいものではない、いつだってどこかエゴに満ちている。
そして、燐を愛する者は大勢はいらぬ。雪男ひとりでいいのだ。
大量の命の犠牲から生まれた、ようするに、たくさんの死でできている、この生き人形。
そんなおぞましい者を好んで愛するのは雪男だけだろう。
そうであるべきであり、そうであるように生み出したのだから。
雪男以外の誰にも愛されなくていいのだ。