メロヘロ
恋愛というものがこれほどやっかいなものだと知っていれば、飛び込んではいなかっただろう、と阿部は思った。
朝早くからの練習と、日が落ちてからもみっちり続けられた練習で、体は疲れてきっている。だというのに、その疲れた体に鞭を打つような真似をわざわざさせるのだから、恋とは怖ろしい。
榛名は、けだるげな様子でゆっくりと阿部の中から自分のものを引き抜いた。ずるりと粘膜をこすられる感覚に、阿部は思わずみじろぎをする。
セックスそのものには随分と慣れた、と阿部は思う。けれども、終わったあとに、ああ一体なにをやってるんだろうなあ、という考えに至るのは、いつも変わらなかった。明日も練習はあるのだから、早く帰って、メシ食って風呂に入って、寝てしまうのが一番なのに、と自分でも分かっている。
ところが実際は、夕飯さえおあずけで、榛名の部屋に入るなりベッドの上へともつれ込んでしまった。キスをしながらも、抱き合いながらも、頭の隅では空腹のランプが点滅している。唾液も精液は腹の足しにはなんねえよ、馬鹿じゃないのか、と阿部は自分に言いたかった。今は、ピークを通りすぎて、逆に食欲がなくなってしまっている。
榛名に背を向ける形でベッドに横たわっていた阿部は、後ろから伸びてきた手に頭を撫でられた。短めの髪の中に手を差し込んで、手のひらに当たるツンとした感触を楽しむように、榛名は手を動かしている。
珍しいこともあるものだ、と阿部は思った。いつもならば、榛名はどちらかというと事後は淡白だ。自分の後始末をして、さっさとシャワーを浴びに行くことが多い。阿部も、終わったあとはくたびれて、頭がぼうっとしているので、それぐらいで丁度いい、と考えていた。
髪を触るのに飽きたのか、今度は阿部の耳をくすぐりはじめた。猫の喉元を撫でるときのような仕草で、耳の裏側をこすっている。なぜか、甘えられているような感覚を呼び起こされて、阿部は落ち着かない。
「なー」
榛名は言いながら、阿部の耳たぶを軽く引っぱった。
「今度の月曜さ、空けとけよ」
阿部は、肩越しに榛名を仰ぎ見た。
「はあ」
「はあってなんだよ。いーの? 悪ぃの?」
「や、なんで月曜なのかなって」
阿部がそう言うと、榛名は少し目を泳がせた。二人が会う日は、大抵、週の半ばと決まっている。別に理由があって決めたわけではないが、たまたま付き合うようになって最初に会ったのが水曜だった。じゃあ、来週もまたこの日に、と言って、そのままそれが習慣になった。
「そりゃあ、まあ、あれだよ」
榛名にしては歯切れの悪い口調で、もごもごと口ごもる。あれってなんだよ、と阿部が視線を投げると、榛名は頭をがしがしと掻いて、怒ったように言った。
「ンだよ! いーだろ、会いたいんだから!」
阿部はゆっくりと顔を元の位置に戻して、それからシーツに顔をうずめた。もう絶対、振り向いたりなんて出来ないと思う。とても耐えられない。こんな恥ずかしさ、こんな体から全部、力を奪っていくような甘さは、阿部はこれまで知らなかったのだ。
「……返事は」
榛名がまた、阿部の耳をこする。そのせいで、もっと耳が敏感になって、榛名の呼吸するわずかな音でさえはっきり拾ってしまう。
阿部は、普段の自分からは到底考えられないような、掠れた小さな声で、はい、と応えるだけで精一杯だった。
どうしよう、と阿部は思う。野球だけでいっぱいだった阿部の体に、榛名がどんどん入ってきてしまう。
さらりとした夜だった。行き過ぎる風は、少し前までの、春の浮かれたような霞をふくむものから、若葉の濃い息吹を含むものへと変わっている。
改札を抜けた阿部は、そのまま歩いて近くのショッピングモールまで向かった。先に着いている榛名から、そこで時間をつぶしているから、とメールが届いていたのだ。
エスカレーターを何階分か上り、書籍のフロアに着く。ぐるりとあたりを見回すと、本棚越しに、ぴょこんとのぞいた頭があった。榛名の長身は、こういう時便利だ。
阿部は目的の列まで回り込み、榛名の背中に呼びかけた。
「元希さん」
「うお」
榛名は肩を跳ねさせて振り返った。
「あー、びっくりした」
「ウス。お疲れさまです。待たせてすみませんでした」
「おー」
「すげー集中してたんすね。驚きすぎ」
阿部は、榛名が手にしている雑誌をのぞきこんだ。全国でも有名な強豪校の練習メニューについての記事だった。雑誌を書架に戻してその場を離れようとした榛名に、阿部は、あ、と声をあげる。
「オレ、まだ今月の買ってなかったんです」
だからそれ、もらいます、と言って、阿部は榛名から雑誌を受け取った。
「でもそれ、色んなヤツが読んでもうべろんべろんになってっぞ」
「読めねーわけじゃねーから、いいです」
こだわりなくそう言って、レジへ向かっていると、後ろから榛名に、頭をぽん、と撫でられた。
「は?」
振り返って見上げる阿部に、榛名はもう数回、ぽん、ぽんと触れる。
「なに」
「やー、なんか」
「なんですか」
「タカヤがタカヤっぽいから」
どうしてだか、くすぐったそうな顔つきで榛名は言った。意味が分からなかったが、それ以上追及してもきっと分からないままだろう、と阿部は諦める。会計待ちの列に並びながら、阿部は言った。
「あんまり、ぽんぽんぽんぽん叩かないで下さい」
「縮むから?」
「縮みません」
「ハゲるから?」
「ハゲねーよ。落ち着かないからです」
榛名は目をぱちくりとさせた。
「お前そりゃあ……」
言葉の先は、身をかがめて、阿部にだけ聞こえるように耳もとで囁いた。
それは、オレに恋してるからだろう、と。
「ん、なっ……!」
こんなところで、何を言い始めるのだと動揺する阿部を、榛名がにやにやと笑いながらからかう。
「やーい、図星」
「あーもー、うるせえええ」
榛名がまた阿部の頭を触ろうと手を伸ばし、それを阿部が持っていた雑誌を盾にして防ぐ。順番が回ってくるまで、二人の攻防は続いた。
会計を済ませ、べろんべろんからぐっしゃぐしゃにまで進化を遂げた雑誌を、バッグに詰め込みながら、これでは、色ボケというほかない、と阿部は思った。