トロメロ
マンションのすぐ手前まで来たところで、それが目に入った。急に足を止めた榛名を訝しんで、秋丸が、どうしたの、と問う。
「犬」
短くそう言い置いて、榛名はずんずんと歩いた。そうして、目的のものへとたどり着くと、にっこり笑って話しかけた。
「ちわっ、かわいいっすね!」
突然声をかけられた飼い主の女性は、始めはびっくりしていたが、榛名が腰を落としてその飼い犬と目を合わせて笑っているのを見ると、表情を和らげた。
「ありがとう」
「名前、なんて言うんすか?」
「ミルク、よ。ミルクちゃん」
その名の通り、真っ白な毛並みの犬だった。榛名は、犬の種類には詳しくない。それで、これから先、白い犬を見ると、なんでも「ミルク」と呼ぶようになった。
「えーっと、あの。ミルクの写真撮らせてもらってもいいっすか?」
こんな可愛い犬に会った、って自慢したいんで、と榛名が続けると、女性はうれしそうに笑ってうなずく。やった、とはしゃぐ榛名の様子を、その女性は、まるで大きな犬のよう、と思いながら見つめていた。
携帯電話を取り出してしっかりとカメラに犬の姿を納め、お礼を言って手を振ったところで、ようやく秋丸が追いついてきた。
「写真撮らせてもらったん?」
「おー」
「お前、そんなに犬好きだったっけ?」
今撮ったばかりの写真を添付してメールを打っている榛名の手元をのぞき込みながら、秋丸は尋ねた。その顔を、らぶらぶメールだから見んな、とぐいっと押しやって答える。
「オレじゃなくて、タカヤ。あいつ、すげー犬好きなの」
「へー、意外」
「だろ!? あいつ野球に関わること以外はどーでもいいって感じなのによー」
一緒に歩いてる時も、横を犬が通ったりすっと、そわそわしだすし、と続けながら、榛名はメールの文章を完成させて送信した。
それから、踵を返して今度こそマンションへと向かう。
「なんか、結構うまくいってんじゃん」
「あ?」
「タカヤと。俺、正直言って一ヶ月ももたないかと」
「てめ、ふざけんな」
榛名が右足を振り上げて蹴る真似をするのを、秋丸はひらりと避けて言った。
「だってさー、去年、春大で会った時、お前嫌われてたじゃん」
「嫌われてねーよ!」
「逃げられてたじゃん」
「あ、れは! 照れ隠しだろ! カッコイー元希さんに久々に会って照れてたんだよ」
「へえー……」
「まー、オレはオトナだから、タカヤのそういうとこも寛大に見てやってるってわけ」
言いながら、これは嘘だと榛名は自分でも分かっていた。自分が大人だから、ではない。
エントランスに着いたところで、榛名の携帯が音を立てた。阿部からのメールが届いたのだ。
エレベーターのボタンを押すのは秋丸にまかせて、榛名は受信したメールを開く。
「件名:ずるい
本文:ずるいです。なんで元希さんばっかり、いっぱい犬に遭遇するんですか?」
榛名は、もう、たったこれだけの文章で、体の力が抜けて、くにゃりとしてしまう。
「榛名、きたよー」
降りて来たエレベーターに乗り込んで振り返った秋丸は、幼なじみの表情を見て、思わず声を上げた。
「うわー……」
「なんだよ」
「お前、すごい顔だよ。キモチワルイ」
「うっせ!」
鏡で確認などしなくても、今の自分の顔が溶けきっているのは分かっていた。
そう、自分は大人などではないのだ。ただ、タカヤが好きで、可愛くてたまらないだけなのだ、と榛名は思った。
部屋に着いて、先ほどの阿部のメールに返信をするために、すぐに榛名は携帯を開いた。
「件名:いーだろ
本文:オレ、犬にモテモテだから、自然に寄ってくんの。うらやましーだろ?」
それだけ書いて、送信をする。本当は、だから、オレにくっついてればいいだろ、と書き加えたかったが、それはなんだか照れくさくてできなかった。
送信完了のメッセージを確認すると、携帯電話をぽいとベッドの上に投げ出し、夕飯の匂いに誘われて居間へと向かう。
食卓には、榛名の分だけが用意されていた。他の家族は、とうに夕飯を済ませている。
いただきます、とさっそく手をつけ始めると、台所で洗い物をしていた母親が振り返った。
「そういえば、元希、今年はどうするの?」
「なにがー?」
「お誕生日。去年は、野球部の子たちにお祝いしてもらったのよね。今年もそう? 遅くなりそう?」
「あー」
榛名は、もぐもぐと咀嚼しながら頭を巡らせた。自分の誕生日が一週間後に迫っていたことなど、母に言われるまで気がつかなかった。
「んー、まだ、わかんね」
去年は、当時の三年生が中心になって、榛名の誕生日祝いの場をセッティングしてくれた。けれども、その先輩達が卒業した今、そこまで気の回る人間がいるかどうか、榛名には分からなかった。
秋丸は、そういうの、音頭取るタイプじゃねーしな、とも思う。
幼なじみのあの男のことは、榛名はよく知っているつもりだ。秋丸は、決して鈍感だったり、気遣いの出来ない人間ではないと分かっているが、自分が誰かを引っ張っていくだとか、まとめていくだということに対して、まるで無関心なのだった。
それで、結局、新体制でのキャプテンを榛名が勤めることになったのだ。
榛名が主将、秋丸が副主将、の人事が決まったあとで、秋丸はからりと笑って言ったものだった。
「いいじゃん、主将でエースで4番。かっこいいよ」
「おっ前なあー」
「それに、俺はサブで何かやる方があってるんだ。まあ、ちゃんと支えるから。そこは安心して」
到底安心はできないような笑顔だのに、それでも信頼を預けたくなる何かが、秋丸にはあった。榛名にとっては満足のいくものではないが、秋丸は秋丸なりに努力して、ずっと榛名についてきているのだ。
それだけ出来んだから、もっと頑張りゃーいいのに、という、もはや言い飽きたことをまた懲りずに考える。それでも、三年生が引退して以降、少しは変わりつつあるように見えるので、榛名は自分の野球をして見せて、秋丸のことは見守るしかないと思っている。誰かを無理矢理、思い通りに動かすことなど出来ないのだ、と今の榛名は了解していた。
「じゃあ、予定決まったら教えてよね」
榛名の母はそう言うと、再び洗い物に取り掛かり始める。
「おー。あ、でも、やっぱ遅くなるかも」
榛名は思いついて言った。
「約束があるの?」
母の声に、榛名はこみ上げる笑みを押さえきれずに答える。声にまで、うきうきが滲んでしまっていた。
「今からする」
誕生日に阿部と会う、という案を思いついて、榛名は飛び上がりそうにうれしくなった。
風呂を済ませて部屋に戻っても、阿部からのメールの返事はなかった。部活を終えて、疲れてすぐ眠ってしまったのかもしれないし、もしかしたら怒ってしまったのかもしれない。
阿部は、彼自身が思いたいほどには大人ではなく、気が短いのだ。榛名も同じで、とても気が長い方とは言えない。そんな二人だから、付き合い始める前も、その後も、小さな喧嘩は頻々とあった。
秋丸が、榛名と阿部の付き合いが長く続くとは思わなかった、と言ったのも、このあたりが理由だろう。榛名は、阿部に告白されたと秋丸に話した時のことを思い返す。
「犬」
短くそう言い置いて、榛名はずんずんと歩いた。そうして、目的のものへとたどり着くと、にっこり笑って話しかけた。
「ちわっ、かわいいっすね!」
突然声をかけられた飼い主の女性は、始めはびっくりしていたが、榛名が腰を落としてその飼い犬と目を合わせて笑っているのを見ると、表情を和らげた。
「ありがとう」
「名前、なんて言うんすか?」
「ミルク、よ。ミルクちゃん」
その名の通り、真っ白な毛並みの犬だった。榛名は、犬の種類には詳しくない。それで、これから先、白い犬を見ると、なんでも「ミルク」と呼ぶようになった。
「えーっと、あの。ミルクの写真撮らせてもらってもいいっすか?」
こんな可愛い犬に会った、って自慢したいんで、と榛名が続けると、女性はうれしそうに笑ってうなずく。やった、とはしゃぐ榛名の様子を、その女性は、まるで大きな犬のよう、と思いながら見つめていた。
携帯電話を取り出してしっかりとカメラに犬の姿を納め、お礼を言って手を振ったところで、ようやく秋丸が追いついてきた。
「写真撮らせてもらったん?」
「おー」
「お前、そんなに犬好きだったっけ?」
今撮ったばかりの写真を添付してメールを打っている榛名の手元をのぞき込みながら、秋丸は尋ねた。その顔を、らぶらぶメールだから見んな、とぐいっと押しやって答える。
「オレじゃなくて、タカヤ。あいつ、すげー犬好きなの」
「へー、意外」
「だろ!? あいつ野球に関わること以外はどーでもいいって感じなのによー」
一緒に歩いてる時も、横を犬が通ったりすっと、そわそわしだすし、と続けながら、榛名はメールの文章を完成させて送信した。
それから、踵を返して今度こそマンションへと向かう。
「なんか、結構うまくいってんじゃん」
「あ?」
「タカヤと。俺、正直言って一ヶ月ももたないかと」
「てめ、ふざけんな」
榛名が右足を振り上げて蹴る真似をするのを、秋丸はひらりと避けて言った。
「だってさー、去年、春大で会った時、お前嫌われてたじゃん」
「嫌われてねーよ!」
「逃げられてたじゃん」
「あ、れは! 照れ隠しだろ! カッコイー元希さんに久々に会って照れてたんだよ」
「へえー……」
「まー、オレはオトナだから、タカヤのそういうとこも寛大に見てやってるってわけ」
言いながら、これは嘘だと榛名は自分でも分かっていた。自分が大人だから、ではない。
エントランスに着いたところで、榛名の携帯が音を立てた。阿部からのメールが届いたのだ。
エレベーターのボタンを押すのは秋丸にまかせて、榛名は受信したメールを開く。
「件名:ずるい
本文:ずるいです。なんで元希さんばっかり、いっぱい犬に遭遇するんですか?」
榛名は、もう、たったこれだけの文章で、体の力が抜けて、くにゃりとしてしまう。
「榛名、きたよー」
降りて来たエレベーターに乗り込んで振り返った秋丸は、幼なじみの表情を見て、思わず声を上げた。
「うわー……」
「なんだよ」
「お前、すごい顔だよ。キモチワルイ」
「うっせ!」
鏡で確認などしなくても、今の自分の顔が溶けきっているのは分かっていた。
そう、自分は大人などではないのだ。ただ、タカヤが好きで、可愛くてたまらないだけなのだ、と榛名は思った。
部屋に着いて、先ほどの阿部のメールに返信をするために、すぐに榛名は携帯を開いた。
「件名:いーだろ
本文:オレ、犬にモテモテだから、自然に寄ってくんの。うらやましーだろ?」
それだけ書いて、送信をする。本当は、だから、オレにくっついてればいいだろ、と書き加えたかったが、それはなんだか照れくさくてできなかった。
送信完了のメッセージを確認すると、携帯電話をぽいとベッドの上に投げ出し、夕飯の匂いに誘われて居間へと向かう。
食卓には、榛名の分だけが用意されていた。他の家族は、とうに夕飯を済ませている。
いただきます、とさっそく手をつけ始めると、台所で洗い物をしていた母親が振り返った。
「そういえば、元希、今年はどうするの?」
「なにがー?」
「お誕生日。去年は、野球部の子たちにお祝いしてもらったのよね。今年もそう? 遅くなりそう?」
「あー」
榛名は、もぐもぐと咀嚼しながら頭を巡らせた。自分の誕生日が一週間後に迫っていたことなど、母に言われるまで気がつかなかった。
「んー、まだ、わかんね」
去年は、当時の三年生が中心になって、榛名の誕生日祝いの場をセッティングしてくれた。けれども、その先輩達が卒業した今、そこまで気の回る人間がいるかどうか、榛名には分からなかった。
秋丸は、そういうの、音頭取るタイプじゃねーしな、とも思う。
幼なじみのあの男のことは、榛名はよく知っているつもりだ。秋丸は、決して鈍感だったり、気遣いの出来ない人間ではないと分かっているが、自分が誰かを引っ張っていくだとか、まとめていくだということに対して、まるで無関心なのだった。
それで、結局、新体制でのキャプテンを榛名が勤めることになったのだ。
榛名が主将、秋丸が副主将、の人事が決まったあとで、秋丸はからりと笑って言ったものだった。
「いいじゃん、主将でエースで4番。かっこいいよ」
「おっ前なあー」
「それに、俺はサブで何かやる方があってるんだ。まあ、ちゃんと支えるから。そこは安心して」
到底安心はできないような笑顔だのに、それでも信頼を預けたくなる何かが、秋丸にはあった。榛名にとっては満足のいくものではないが、秋丸は秋丸なりに努力して、ずっと榛名についてきているのだ。
それだけ出来んだから、もっと頑張りゃーいいのに、という、もはや言い飽きたことをまた懲りずに考える。それでも、三年生が引退して以降、少しは変わりつつあるように見えるので、榛名は自分の野球をして見せて、秋丸のことは見守るしかないと思っている。誰かを無理矢理、思い通りに動かすことなど出来ないのだ、と今の榛名は了解していた。
「じゃあ、予定決まったら教えてよね」
榛名の母はそう言うと、再び洗い物に取り掛かり始める。
「おー。あ、でも、やっぱ遅くなるかも」
榛名は思いついて言った。
「約束があるの?」
母の声に、榛名はこみ上げる笑みを押さえきれずに答える。声にまで、うきうきが滲んでしまっていた。
「今からする」
誕生日に阿部と会う、という案を思いついて、榛名は飛び上がりそうにうれしくなった。
風呂を済ませて部屋に戻っても、阿部からのメールの返事はなかった。部活を終えて、疲れてすぐ眠ってしまったのかもしれないし、もしかしたら怒ってしまったのかもしれない。
阿部は、彼自身が思いたいほどには大人ではなく、気が短いのだ。榛名も同じで、とても気が長い方とは言えない。そんな二人だから、付き合い始める前も、その後も、小さな喧嘩は頻々とあった。
秋丸が、榛名と阿部の付き合いが長く続くとは思わなかった、と言ったのも、このあたりが理由だろう。榛名は、阿部に告白されたと秋丸に話した時のことを思い返す。