人魚
prologue”rainydays and mondays always get me down”
なんでだっけ。
「………」
ぬる、と手を伝う赤。黒味を帯びた赤。鉄の味。これは知っている、血、だ。
呆けたようにその手を見ていた。濡れ汚れた手を上げて、見ていた。そして段々と知覚してくるのは、胸にかぶさる重み。男のにおいがした。女の人も、子供も、こんなにおいはしない。
「………大佐?」
なんで。
どうして。いま。この状況で。
何があったんだっけ。
自分と、彼に。
数瞬前まではなんということのない日常?―――だったような気がするが、思い出せない。頭の中がショートしてしまったように。なにも。
「大佐っ!エドワード君…、…!?」
バタバタと誰かが駆け寄ってきて、呆然と顔を上げた。
―――その後どうしたか、よく、思い出せない。
そぼ降る雨の月曜だった。
まったくいやなことが二つも重なるなんて、とぼやく男に、呆れたように笑って。でもまさかその時はこんなことになるとは欠片も思っていなくて。
―――窓に何かが飛んできた、と視界の隅で確認したのは、自分が先だったように思う。けれど、反応したのは彼が先だった。なぜなら、彼にはそれがなんだかわかったからである。
飛んできたのは、投げつけられたのは、手榴弾だった。
窓ガラスが割れ、爆発が起こり、対処する間など勿論なくて。
そして気がついたら、自分を庇う位置にいたのか、単に彼の方が窓に近かったのか、とにかく自分に覆い被さるように倒れている彼の姿があった。重い、と思った。それからついで、埃っぽいにおいと、確かに手に触れるぬめった赤黒い液体の存在を知る。
―――なんで?
「…しっかりなさい!」
さすがに血の気の引いた顔をしながら、中尉がきつめの声でエドワードの肩をゆすぶった。いつの間にか、覆い被さっていた彼は、他の部下に担がれている。
「あなたも病院へ」
気丈な女性は、極めて冷静にそう告げた。
「―――大丈夫、死なせないもの」
自然、彼を目で追っていたらしい。女性はそんな少年に気付くと、小さな肩に手を置いて、そう零した。
…どこか自分に言い聞かせるようでもあった。
病院の気配というのは、好きになれない。
単に好きではないというのもあるのだが、それ以上に、そこは死の気配に満ちているから。清潔にされた空間にも、怖気が走る。
エドワードは呆然と廊下の長椅子に座っていた。
まだ、彼の治療は終わらない。
彼の部下は其々に東奔西走し、事後処理(主に情報統制をするために)にあたっていた。自分にくっついているべき弟も、今はここにいない。
少年は、まるでひとりきりだった。
ひとりきり、彼の処置が終わるのを待っていた。他にすることもなかったし、また、他に何もできそうになかった。それくらいに、ショックは大きかったのだ。
死ぬかもしれない、と思ったからかどうかはわからない。
年齢に見合わず、多くの修羅場をくぐってはきたけれど、こんな風に突然様々な覚悟を突きつけられるとは思っていなかった。
「…っ」
かつ、と小さな音がして。
敏感に、少年は顔を上げた。
エドワードの視線の先で、ドアが開いていく。金の瞳を瞬きもさせず、少年はそれをただ凝視する。
現れたのは医師だった。いや、医師らしき人物、とするべきだろうか。彼はエドワードの姿を見つけると、少し困ったような空気を滲ませた。それはそうだろう。まさか、軍の高官である彼の容態を、こんな小さな子供に伝えてもどうなるものでもない。
と…、エドワードの背後を見留めて、医師が若干ほっとしたような表情を作る。
「先生」
背後というか、斜め横から上がった声に、エドワードもそちらを振り向いた。
「…中尉…」
そこには、いささか顔色が悪く見えるものの、常と変わらず毅然とした女性が立っていた。
「先生。…大佐の容態は」
リザは重ねて問うた。それに医師はほんのわずか逡巡する気配を見せた後、とりあえずこちらへ、と中へ彼女を手招いた。エドワードは全くの無視だ。だから、思わず腰を浮かせた少年に、あなたも、と声をかけたのはホークアイ中尉であった。
その誘いに、少年は軽く目を瞠り。
それから、泣き出しそうな顔を一瞬見せた後、こくりと無言で頷いた。
室内に通されると、診察台に、どこかぼんやりした調子で若い男が掛けていた。
「たい…」
ぼうっとしてはいるが、それでも思ったより元気そうな様子に、ほっとしたエドワードが呼びかけ、ようとしたとき。医師が黙って首を振った。
「………?」
その様子に、リザもまた物問いたげな顔をする。
「…………誰だ?」
肩に羽織っただけの検査着の下、上半身を包帯で覆われた男が、ゆっくりと入口の方を振り向く。頭にも痛々しそうな包帯。だが、思ったよりもやはり軽傷のようで、喋る口調も案外しっかりしたものだった。
…どうかしていたのは、その、口にした内容の方だ。
「………たいさ?」
からかってるのか、と言いかけ、エドワードは凍りつく。男の表情は、とても、嘘を言っているようなそれではなかった。本気でわからない、という顔をしている。
「…一時的なものだと思われるのですが」
言いづらそうに、医師が口を開く。リザは視界の隅にロイを収めながら、それでも体は医師の方を向いた。その説明を聞くために。しかし、エドワードは愕然としたまま、ただ立ち尽くしてロイを凝視している。どうしたらいいのか、もう、さっぱりわからなかったのだ。
「どうやら、頭部を強く打たれているようです。衝撃による一時的なものだと推定されますので、しばらく安静にしていれば、元通りになると考えてよいと思います」
「……元通り、とは」
「大きな事故に遭った時など、同じ症状が出やすいのです。今は、記憶がすっかり抜け落ちているような様子です。少なくとも、ご自分の…お立場などは」
「…記憶喪失、ですか」
「正確を期すなら違うと申し上げるところですが。…そう、考えていただければ」
「…安静にとは、先生の見立てで結構ですけれど、いかほど?」
そこはなんとも、と渋い顔をしながら、それでも医師は答える。
「なるべく、普段の生活と近い環境においていだいた方がいいのかもしれません…一時的なショックによるものだという可能性が高いですから…そうですね…いや、…まずは、身近な方で、記憶の混乱がどの程度のものなのかを見極めていただかないことには…」
リザは溜息をついた。そして、じっと見詰め合うような格好になっている、上司と少年とに視線を移した。
エドワードによれば、ロイは少年を庇った為に(無論最大の原因は、手榴弾など投げ込んでくれた不審者であり、それを許した東方司令部のセキュリティの甘さだが)重傷を負ったということだった。
少年にとっては、たまらない事実だろう。
「…わかりました。…会話をしても、怪我には響かないのですか」
医師は、リザのこの問いに、少し考える風情を見せた。
「…今日はこのまま病室に移っていただいて、そちらで…十分程度になさってください。出血の割に深い傷ではありませんでしたが、安静にしていただかなくては」
少年の強張った肩を見ながら、リザは頷いた。
承知した、と。