人魚
1st day[tuesday]:the bigining of their community life
「なるべく普段と同じ生活をさせた方がいいのですって」
言われたことを思い出しながら、だからってなんでこんなことに、とエドワードは溜息を零した。
あの後―――というのはつまり医師によってロイと引き合わされた後だが、その時中尉とのいくつかの問答で、彼が自分の名前さえ忘れていることがわかった。
ただ、どうしたわけだか、自分が錬金術師である、ということだけは覚えていたらしい。というよりあの手袋の事を覚えていたというか…。
そのせいもあり、同じ錬金術師だ、と名乗ったエドワードに、ある程度の親しみを彼は感じたらしい風情だった。
普段と同じ生活をさせることは、残念ながら厳しい状況だ。彼は難しい立場の人間だからだ。だが、それでも、錬金術の事は覚えており、かつ、同業者たるエドワードがこの場にはいた。さらに言えば、エドワードは国家錬金術師であり、軍との繋がりもある。
…戦闘能力も折り紙付き。
今現在、他に望むべくもない好物件だったのだ、彼は。護衛としても監視としても、連絡係としても。
そうしてエドワードは、口を挟む隙さえなく、気づいた時には、イーストシティのごくごく平凡な住宅街の一角、軍が架空の名義を使って所有しているという一軒家に押し込められていた。
ひとりで、ではない。
だが、弟と、でもない。
―――ロイとふたりきりで、だ。
「エドワード?」
と、黄昏ていた背中に、聞きなれた…、だがその声によって発音されるのはありえなかった言葉がぶつかる。
―――ロイが、銘ではなく、名を呼んでいる。
自分はそういう風には呼ばれていなかった、と主張しても無駄だった。このあたり、男の融通のきかなさは生来のものだったのだと思い知らされた。
あまり嬉しくない発見だったが。
「どうかしたのか」
あまり動くなと言っているのに、神経が象並なのか、男はあまりじっとしていない。痛くないわけがないのだが…。包帯はまだ減らないが、どうやら無事でないのは要するに頭だけらしくて、体はさほど不自由を感じていないらしい。
「…別に」
エドワードはどこか疲れた調子で答えた。
一定時間ごとの投薬と、検温と簡単な検診(エドワードでも出来るもの…というのもあるが、そもそも彼が人体の研究において秀でたものを持っていたのが、妙なところで役立ったような格好だ)。それから、なるべく話し相手になって、記憶を戻す手がかりを見つける事。
彼に課された仕事は、少なくない。
何しろ、家事までこなさなくてはならない。勿論、怪我人のロイにさせるのはさすがに酷だというのもあるが、ハエを叩こうとして花瓶を割ってしまうような人間に、一体家事の何を任せられるというだろう。エドワードは、ギャンブルの類が好きなタイプではないのだ。彼は基本的に確実なものを好む。
たとえ彼の探し物が、天文学的な確率でありえないものだったとしても、それと性格は別問題である。
「じゃあ、こっちにきてくれないか。退屈だ」
記憶がないとかいうのは狂言なんじゃないか、そう思うのはこういう時だった。いや、というか、狂言でない場合、つまりこの無駄にえらそうな性格も「地」だというわけで…、それもそれでなんだか頭が痛いと思うのだ。
錬金術師であることは覚えているというロイ。
彼は、記憶がないということを自覚しても、さして慌てたりはしなかった。医師の見立ての都合のいい部分のみを採用し、では、しばらく休んでいればいいのだな、とえらそうに嘯いたものである。
エドワードはホークアイ中尉に同情せずにいられなかった。普段からこんな馬鹿上司のお守を引き受けているのか、と思って。
だが、他人に同情できる余裕があったのはそこまでだった。
何しろ中尉と着たら、「大佐が錬金術のことしか覚えていない以上」と重々しく確認した後で、よろしくエドワード君、と一足飛びに告げたのだから。
正規の軍人ではないとはいえ、国家錬金術師である少年には、少佐相当の権益が認められている。ゆえに、ホークアイに告げられたことをそのまま受け入れる必要は、本来ならばなかった。だから、結局それに諾々として従ったというのは、エドワードの納得あってのことなのだ。ことなのだが…、心から望んでのこと、では勿論ない。それはそうだ。どこの世界に、そんな面倒を進んで引き受けたい人間がいるものか。
「エドワード?」
色々と事ここに至るまでの事情を反芻して、苦虫を噛み潰したような顔をしているエドワードに、のほほんと男は呼びかける。まったく暢気なものだった。
「…わかった」
だが、結局エドワードは諦め、こちらを呼ぶロイの向かいに腰をおろし、さあ話せ、という体勢を作ったのだった。
何だかんだ言ったところで、彼の気質は「兄」なのだ。
―――そうして、彼らの奇妙な共同生活が始まった。
「………つ、疲れた…っ」
ぐったりとベッドに身を投げ出し、もうぴくりとも動かず、エドワードはシーツにつけたままの口でぐもぐもとぼやいた。
とにかく、疲れた。
今日一日だけで、はっきりいって半年くらい旅に出ている間分くらいは疲れた気がしてならないのはなぜか。…いや、まぁ、なぜもなにもないのだが…。
「…………」
エドワードはばたり、と派手に寝返りを打った。そのまま大の字になって、はぁ、と盛大な溜息をつく。
「………………………」
まずなんだったか。
そう、…最初は朝だ。あの時から何となく嫌な予感はしていた。そう、玄関のドアがどうも、鍵の位置がよくなかったらしくてなかなか開かなかった時。その時あの男は何をしたか。
―――鍵が半分開いたくらいの状態で、無理矢理に押し開いた。
あんぐりと口を開けて呆れるエドワードに、何がそんなに驚くべきことなのかわからない、どころか、さっぱり気にも留めないで中へ歩き出したロイ。
あれを見たときから、何か嫌な予感は確かにしていた。
次いで…、そう、次いで、うるさげに飛んでいたハエを叩こうとして、花瓶を粉々にした。
しかもその破片でさらに二次災害、三次災害を起こしかけ、エドワードは本当に呆れたのと頭にきたのとで血管が切れるかと思ったものだ。
ちなみに、どちらも補修はエドワードが行った。
この兄の勇姿と配慮(普段よりディティールに気を配った)を見よ、と考えながら。少年独特の錬成に暢気な破壊魔は目を瞠って、興味心身に色々尋ねてきたが、黙秘権を行使した(単に説明するのが面倒だったのと、本当のロイならわかることが今のろいにはわからないことがどこかでショックだったからだ)。
―――だが、当然、悪夢はそれで終わりではなかった。
皿を洗えとは言わないから、食べたものを流しに片付けるくらいはしたらどうだ、というのに、案外素直に従ったと思ったら…、運んでいる途中で、見事に落として皿を割った。もう呆れて声も出なかったような気がする。
見舞いと称して差し入れられた菓子の箱をびりびりと汚く、子供がするような具合で開き、好きに食べたと思ったら蓋もしないで放置。
部下達がそれぞれに気を使って用意してくれた、着替えを初めとする数日分の生活用品を、せめて自分の分だけでも整理させようとしたら、部屋の床が見えないくらい散らかす。