人魚
6th day[sunday]:talk about the tragic prince
「…ボク、皆さんのご迷惑になってませんか?」
すまなそうに問いかけられ、大人達は一瞬きょとんとした顔をする。だが、それからすぐに笑い出して、ひとりなどはがっしとアルフォンスの肩を強引に組みこむ。
―――悪いんだけどおまえの兄ちゃん、ちょっと貸して欲しい。
そんな風に砕けた口調で言いながらも、存外真剣な顔をして、ハボック少尉が頭を下げてきた。…ので。
何を言われているのかよくわからなかったが、「兄さんがいいなら、ボクに異存はないです」そう、答えた。するとハボックは目に見えてほっとした様子で、すまなそうに小さく笑ったものだった。
そして今。鎧の少年は、東方司令部の客分扱いとして、司令部内に一室を与えられ、日々を過ごしていた。
正確に言うなら彼は学芸員という身分で(急遽用意したもので、当然偽造だが、書類上は何の問題もない)司書の管理化に入り、東方司令部に属する書庫の整理の仕事を手伝っていた。これはやれといわれてのことではなく、日がな一日研究に没頭していることも無理そうだから、と本人が言い出してのことでもあった。無論、大佐の留守を預かる面子には取り立てて不満はなかった。司書に至っては喜んだくらいだ。
体のないアルフォンスは休息をとる必要はなかったけれど、夜勤の誰かと、もしくは事情を知る誰かの自宅に一緒に行くなどして、夜も一人でいることはなかった。
そうした生活も、しかし、六日目ともなれば、慣れが出てくる。そしてその慣れが、アルフォンスに漠然とした不安と居心地の悪さを覚えさせた。
いつまでこの生活が続くのか、という―――。
だが、素直に「兄はいつかえしてもらえるのか」とは、彼には到底訊けなかった。彼の性格上、それはやはり出来ないことだった。だから、それが、「自分は迷惑ではないか」という質問になったのだろう。実際、大人達は、鎧の少年に何くれとなく気を遣ってくれていた。それに対してアルフォンスが無感動だったわけではないのもある。
「アルフォンス君のおかげで書庫が見違えるようになった、って…クレイ女史もお喜びだったわよ」
ホークアイは、書類を抱えたまま微笑む。クレイ女史、とは、司令部所属の女性司書である。当年とって御年四十八歳、ロイが生まれた頃には既に軍に属する司書として働き始めていた大御所である。
「ああー、女史、エドや大佐が行くと見る影もなく散らかすって以前お冠でしたよねぇ、そういや」
思い出したようにハボックは苦笑い。その場に運悪く居合わせた彼は、片付けを有無を言わさず手伝わされた覚えがあった。
「…それはボクも聞きました」
我が兄ながら…、とアルフォンスは申し訳なさげな声で言う。
「ね、ほら。誰の迷惑にもなってないでしょ?」
中尉は目を細め、やさしげな声で言った。
「それに、迷惑ってんならこっちだろ」
ブレダもまた、ぎし、と椅子の背もたれに思い切り身を寄りかからせ言う。
「兄ちゃん借りっ放しだからな」
うんうん、とフュリーが頷いて後を引き取る。
「そうだよ。しかも、大佐が相当我儘を…ほら、おとといだって」
「あー!…あれ驚いたよなあ、なんだっけあの茶色い菓子、あれうまかったよなぁ」
フュリーの言葉の後半に、ハボックは目を軽く見開いて膝を叩く。そう、一昨日、フュリーはエドワード手製だという菓子を土産に持たされて帰ってきたのだった。ああいったものをさんざリクエストしているというのだから、全く…もう少しこう、記憶がない状況に対する危機感とか焦燥とかはないのか、と上司には言いたい。
「…毎朝パンケーキを焼かせているそうだしね」
中尉も肩を竦めた。
彼女は事後処理や各方面への連絡が忙しく、まだあの用意した屋敷に行ったことはないが…、話を聞く限りでは、やはり呆れてしまう気持ちが強かった。今大佐の顔を見たら反射的にホルスターに手が伸びるんじゃないか、とさえ、思わないでもない。
彼女は、とっても忙しい。
「…私たちこそ、ごめんなさいね。…なるべく早く、お兄さんを返せるよう…祈っているわ」
いずれにせよ、「その日」が来ることは、彼女達にとってもできるだけ早い方が望ましいのだ。今の状態が長く続くことは、まったくもって好ましくない。
「…そうですね。…大佐、早く元に戻るといいですよね」
そのことを思い出し、アルフォンスは苦笑した。そして改めて、一日も早く「その日」が来ることを願った。
…もしかしたら、彼は、身内の勘で、今の状況にある種の危機感を抱いていたのかもしれない。
いつもは(というほど長く暮らしているわけでもないが)起こさなくても早朝から元気一杯に起きてくるロイが、その日に限って起きてこなかった。おかげで、エドワードはきちんと三つ編みを結うことが出来た。朝食の支度をあらかた終えて、彼はロイの部屋へ様子を見に行く。
「…大佐…」
ノックにも返事がないので、仕方なく、エドワードはドアを開けた。
「―――大佐?」
すると、着替えは終えている男が、どこかぼんやりとした顔で外を見ていた。窓枠に寄りかかり、何かを考えているような横顔を見せて。
「……、エドワード?」
呼び声に、ゆっくりと男は振り返る。
その黒い目が、ひたと少年を見据えていた。
「…………」
何となく言葉を失ってしまって、エドワードはそんなロイを見返す。惑うような薄い色の瞳に、何を見ているのだろうか。見えているのだろうか。男はじいっと少年の目を見つめている。そして、軽く唇を動かした。それは声を伴わないものだったけれど、確かに彼は何かを言おうとしていた。
「……大佐?」
居心地が悪かったが、今更逃げることも出来ず、エドワードは唇を引き結び、ただ呼びかけた。これで何度目の呼びかけだろうか、とちらりと思った。
「…私は」
ようやく、ロイは声を発した。
「……………」
「…思い出したくないとでも、思ってるんだろうか」
「……?」
少年は、眉間に皺を寄せて首を捻る。この男は何か思い出しでもしたのだろうか。だったら、司令室の面々に報告しなければ。…だが、何か違う気もしていた。ロイの、多分に迷いを含んだ弱い口調のせいかもしれない。
「そばに、きてくれるか」
「……?」
いや、とロイは首を振りながら、窓枠から離れた。自分で行くことにしたらしい。そして静かにエドワードに歩み寄ると、困惑した表情を浮かべて彼を見つめる。しかし困惑しているのはエドワードも一緒だった。彼は、何がしたいのだろうか、と。…何を考えているのだろうかと。
「…たい…」
呼びかけた唇を、止めたものがあった。そのことにひどく驚いて、エドワードは呆然とする。
ロイの手が、エドワードの口を軽く覆うように動いたのだ。
大きな手だった。エドワードが咄嗟に思ったことといったら、それくらい。
「―――呼ばないでくれ」
その、少し苦しそうな声に、少年はただ目を瞠る。
「…ロイ、というのだろう。私の名前は」
「…………?」
「だったら。…そう、呼んでくれないか」
ロイはそっと手を外し、幾分目を細めてそう乞う。微かに笑ったのは、恐らく少年を宥めるためなのだろう。
「…その方が思い出しそうな気がするよ」
「……ほんとかよ?」