人魚
それには答えず、ロイは、それまでの様子が嘘のように笑った。
「さて。今日の朝食はなんだろうな」
「あっ」
男は楽しそうな様子で部屋を出て行く。エドワードは半瞬遅れてそれに気付き、慌てて後を追う。
「今朝はいい加減もうパンケーキなんか焼かねえからな!」
―――事件としては解決しているから。
中尉からの伝言だった。だから、少しくらいならふたりとも外に出ても構いません、けれど、あまり目立たないように。…と。
「…でも男二人で買物って時点である意味悪目立ちしまくりなんですけど」
エドワードは、疲れたようにひとちごちた。
…確かに外に出たいと言ったのは自分だ。許可をくれた彼女には感謝する。だがあんなおまけがいたら買物どころではないではないか。
「あらー、お兄さんいい男だねぇ!これおまけしちゃおう!」
「ありがとうございます。マダム」
少年は呆れて会話の発信源を振り返った。
…こいつ本当は記憶戻ってんじゃねーの?
エドワードの心はかなり疑いでいっぱいになった。
「やだよもう!マダムなんて!」
きゃあ、と年甲斐もない歓声。…勘弁してくれ、とエドワードは溜息ひとつ。
「…た…ロイ」
一応小さめの声で呼んで、エドワードはロイの袖を引いた。
「ああ。エドワード。今こちらのマダムにこれをいただいたよ」
が。
男は、危機感ゼロののほほんとした態度で、サービスしてもらったという林檎をエドワードに示した。こいつの頭をかち割ってやりたい、と咄嗟に少年が思ったなどとは、きっと夢にも思うまい。
「タルト・ポンムが食べたいな」
「………」
はぁ、と言われたエドワードは力の抜けた溜息。
「似てないけど、兄弟かい?」
まさか親子じゃないでしょうけど、と興味津々の声が飛ぶに至って、少年ははっと我に返る。不審に思われる前にごまかさなければ…。
「いえ」
と、その前にロイがうっすら笑みを口許に刷いた、確かに見映えはいいかもしれない顔で口を開いた。
「彼は私の恩人です」
「…はぁ…」
ご婦人を煙に巻く笑顔と台詞。実はエドワードでさえ、その表現に唖然とする。…わけがわからなくて。
「そして、大事な友人です。…では、私達はこれで。失礼、マダム。ごきげんよう」
彼は一方的に切上げると、エドワードの腕を軽く取って歩き始めた。
「えっ?」
「他にも必要なものはあるだろう?」
「あ、ああ…」
一時的にではあったが、少年の肘に手を引っ掛けて進む若い男。その妙に親密な態度は、ただの友人になどとてもではないが見えなかった。そもそも年も結構離れているように見えたし…。
だが。「マダム」―――青果店の女主人はあっさりと夢見ごこちの表情で呟いた。
「いい男ってのはなにしてもサマになるねぇ…一緒にいたちっこいのも、大きくなればいい男になるだろうし」
将来が楽しみだねぇ…。
―――世はすべてこともなしと言ったところか。
だが、離れていったエドワードとロイは、そうもいかないようだった。
「ちょ、おい、離せって…」
ロイに引っ張られて進むのが落ち着かなくて、エドワードは焦ったような声で訴える。
「………、…なんだよ、…恩人て」
腕を離さないロイから視線を外して、俯き加減で、少年は小さく呟く。
―――恩人というなら、この男の方ではないのか。
エドワードは覚えている。いや、忘れられるわけがない。ただ果てしない悔恨と絶望の中にあった時に、彼が現れた。優しいとはとても言えなかったけれど、あの激しさは感謝に値するものだろう。断罪と救済は慈悲の表と裏だから。
少なくとも、あの時―――つまりロイがエドワード達を偶然に訪ねてきたあの時に、エドワードが必要としていたのは、多分あたたかい言葉でもやさしい腕でもなかった。それでは二度と立ち上がれなった。彼が奮い立たせてくれた―――やはり、そうとしか言えないと思うのだ。
ロイは感謝など受取らないだろうし、自分もそんなものを改めて告げる必要は覚えない。これからのエドワードが歩く道、これからの生き様が彼への答えだから。だが…。
「恩人だろう?」
振り向いた男の顔からは感情が読み取れなかった。それどころか、彼はあの時の彼と同じですらない。帰ってきて欲しいと思った。いや、帰って来て欲しいと、思うべきだと思っていた。
「それとも、昨日ヒューズとかいう男が言ったように、嫁とでも言った方が?」
からかう底意地の悪い口調も、細めた目の色も同じなのに、それなのに彼はロイではない。ロイであってロイでない、…泡沫の。
「…ふざけんな。…いいから離せよ。歩きづらいだろ」
「………」
ロイは黙って手を離した。しかし、眉間に軽く皺を寄せて、エドワードを覗き込むようにする。
「…なんだよ」
「…そんなに気に障ったのか?…すまない」
申し訳なさそうな顔をする男に、エドワードは軽く目を瞠った。
「…そんなじゃねぇよ」
意識したことではなかった。
だから、ロイが驚く気持ちなど、その原因など、エドワードにはきっとわからなかっただろう。
少年は、はにかむような顔で笑っていた。そうして小首を傾げるようにして、ロイを見上げて言うのだ。照れくさそうに、けれどすこし嬉しそうに。年相応の、普段は見せることのない顔をして。
「…帰ろう。…ロイ」
常と違うのはもはやロイだけではなかった。だが、エドワードはそのことに気付いてはいなかった。…勿論、自分を見て目を瞠っている男の、その心にも。
「…エドワード」
再び歩き出した背中に、微かな声がぶつかった。エドワードがそれに振り返るよりも早く、一度は離された腕がまた捕まえられた。しかも、今度は強く、しっかりと。抗うことなど許さぬ勢いで。
「え…?」
ぐいぐいと彼はエドワードを引っ張っていく。そして、あれよあれよという間に、例の一軒家、つまり彼らが暫定的に居を構えている…その家にまで辿り着く。そんなに慌てなくても、とエドワードは内心首を捻るが、ロイは無言だし、自分を引っ張って先に進んでしまうので、顔も良くわからない。
だが、「エドワード」と呼んだので、多分記憶が戻ったわけではないのだろう。
バタンとドアを開けて、ドアが閉まりきるのを待たず、それを背で押し閉めるようにして、ロイは小柄な体をぎゅうっと抱きしめていた。
「えっ?」
エドワードは何がなんだかわからない。あまりにも唐突過ぎる。
「…人魚姫の物語の」
困惑するエドワードの耳のすぐそばで、男の低く押し殺したような声が聞こえた。抱きこめられた腕はしっかりとしていて暖かかった。
…暖かかった。
「王子の気持ちがわかったよ」
「………?人魚姫…?」
当惑のまま単語を繰り返して問いにすれば、しばしの間を空けて、自嘲に似た気配。エドワードはただ目を瞠る。
「…王は国のものだ。誰かを愛することなど許されない。国というのは、嫉妬深い生き物だからね」
「……?」
「乙女を愛することは、あってはならないことだ。ましてそれが掛け値ない己の本心なら」
ロイは、抱きしめた体に顔を寄せ、頬を摺り寄せて言葉を続ける。
「…だったら、忘れてしまうしかないじゃないか」
「………、たいさ…?」
「呼ばないでくれ」