人魚
低い門扉を軽く押して、たった二週間弱だったけれども、すっかり馴染んでしまった玄関をくぐる。見れば、彼が昨日まで履いていた靴とか、室内履きなんかが雑然と置かれていて、それは泣き笑いのような表情を彼にもたらした。
それらを横目に、少年は、ひとつひとつを確かめるように室内を見まわした。
ソファには昨日の新聞がばさりと放り投げられ、ローテーブルの上、それでも端の方に寄せてあるのは、昨夜たたんだ洗濯物。蓋をしろと言ってもとうとう守らなかった菓子の箱、大体あんなに甘い物が好きとは知らなかった、だから太るのだろうか。やってきて早々にコーヒーを零した絨毯の染み、結局取れなかった。キッチンへ視線を流せば、オーブンの上、コンロにそのままになった深鍋。水切り桶には使った皿。そういえば一度として洗い物をしなかった、あの男は。まあ、させる気にもならなかったのだが。本当に役に立たない相棒だった。そのくせよく食べ、また、味にも文句をつけた。作らせたら悪夢のような料理しか出さないくせに、偉そうに…。
「……」
鼻の奥がツンとした。
泣いてしまいそうだった。
…エドワードはソファに腰を降ろして、ぎゅっと目を閉じ喉を仰のかせる。
泣いてしまいそうだったから。
「……ばかやろう」
こっそりと悪態をついた。弱い声の合間、唇には塩辛い味が伝ってきた。鼻の奥と目の奥がツンとして、ああ、ほんとに目と鼻って繋がってるんだ、と馬鹿なことをぼんやり考えていた。
何も食べる気がしなかったけれど、深鍋を見ていたら少し気が変わった。これは昨日、彼が悪戦苦闘して作ってくれたシチューだ。けして美味いものではないのだが、…どうせ捨ててしまうのなら。
「………」
エドワードは黙って火を入れた。
お玉を取って、時折かきまぜる。なんで昨日彼があんな気まぐれを言い出したのかはわからない。そして、それを知る者はきっともうどこにもいないのだ。「今の」彼は昨夜の彼とは違うから。あれは、消えてしまった人間だ。…幻なのだ。
胸を張って、「私だって切って煮るだけの料理くらい出来る」と宣言した彼。
疑わしかったが、本当に体がだるかったので、じゃあやってみろよと任せてみた。…そして幼子を持つ母親の気持ちを存分に味わって、彼が―――、ロイがどうにかこうにか料理を終えた時など、思わず安堵で腰が抜けそうになったものだ。なのにあのバカときたら全くわかっていなくて、まだ腰が立たないのかとか何とか…結局もう食事どころではなくなりかけた。腹の虫のおかげで、一応食べたような食べないようなという感じになったけれど、結局なだれ込んだわけで。
だけれども、あれが最後だった。
その後彼は本来の彼に戻ったのだから。
「…………」
エドワードは、ぐつぐつと温まってきたシチューの火を止めた。黙ったまま皿によそって、スプーンを探し出す。それからパンの残りと、バター、そしてジャム。近所のパン屋が意外に美味かったのは思わぬ掘り出し物だったと考えながら、着席し、ひとりで食べ始める。
「……。大味なんだよ、バカ」
三口くらい食べたところで、ぽつんとエドワードは文句をつけた。
かちゃ、とスプーンを置く。
そんなことはない、と言って欲しかった。今ここで、エドワードの向かいに座って、ちょっとむっとしたようにでいいから。そうしたら、自分はもっとからかって、相手を怒らせたっていい。それでもきっと彼は本当には怒ったりしないで、しょうがない、と負けてくれるような気がする。今がそんな風だったら、とてもよかったのに。
―――今日だけだから。
少年は、家に入る時に呟いた言葉を、胸のうち繰り返した。
今日だけ。今だけ。明日になったら、自分も二週間前の自分に戻るから。一緒に過ごした少しの間の、ことを、忘れるから。
だから今だけはその中にいたかった。…いさせて、ほしかったのだ。
段々夕方になってきて、西日がさしてきても、エドワードはぽつねんとリビングのソファに寄りかかっていた。つまり床に座っていた。小さくなって動かない姿は、人形のようだった。
「………」
目を閉じて、息を吸い込む。まだ部屋のあちこちに彼の匂いや気配が残っている。
ほんの十日間、約二週間。
けれど、後にも先にもきっとない、二週間。
ゆらり、と小さな体が傾いだ。エドワードはソファに顔をうずめる。ぽふ、と頬を載せて。
そして唇だけを震わせた。短く、誰かを呼ぶように。
―――証拠を残そう。
耳の奥、よみがえる言葉。
「………意味ないじゃん」
ぽつりと落ちた言葉は、とても傷ついているように響いた。自分でも動揺してしまいそうなほど。
「…だから…」
証拠なんて。…約束なんて。
エドワードは、ぎゅうと目をつぶった。
そのままソファに顔を押しつけ、くぐもった声をもらす。泣きたくはなかった。そんな女々しい真似は、絶対にごめんだった。なのに鼻の奥がひどくツンとする。泣いてしまえと体が言うのだ。
…西日の射す部屋の中、ソファに縋る小柄な体は、ぴくりとも動かなかった。ただ、顔を座席に伏せて、まるで眠っているかのように。
夜になって、またシチューに火を入れた。どう考えても塩味が足りなかったので、少し塩を足した。そうすればもう特に感慨もなく、それはただのシチューに過ぎなかった。いい加減野菜もよく煮えていたし。
エドワードは黙々と食べた。
そして、やはり黙ってバスルームへ向かう。
「…………」
服を脱げば、見えるところだけでも相当な痕がつけられている。呆れてしまうが、それでもさすがに気恥ずかしく、頬に朱が上った。
「…ちゅーちゅー吸いつきやがって、おまえは蚊か、っちゅーの…」
生憎他と比較できるほど経験豊富でもないし、元々の興味自体も薄かったせいで、知識も大分少ないと思う。それでも、あいつはしつこい、と思うエドワードである。
元から誰に対してもそうなのか、それとも、記憶のない仮初の人格ゆえにそうだったのかはわからないけれど。
コックを捻る。
熱い湯が、もやついた思いさえ流してくれたらいいのに、と思う。だがそれもまた女々しい話だ、と自嘲の笑みが浮かんだ。
目を閉じる。そういえばシャワーを浴びながらということもあった気がする。まったく、躾の悪い犬みたいな男だった。
―――どうしたら、君を傷つけず、私が君を失わないで済むのか、考えていた。
よみがえる言葉に、ふと、少年は薄目を開けた。
「………」
首を捻り、襟で隠れるか隠れないか、ぎりぎりのところにつけられた痕を覗きこむ。
自分が愛した証拠。
たとえば自分が忘れてしまったら、それを明かしにしろと。
…だがこんなものがどうして証拠になるだろう。段々笑いがこみ上げてきて、とうとう、少年は壁に背をもたれさせ崩れ落ちると、顔を押さえながら喉奥を震わせた。
そのまま、そっと腕を伸ばして、自分の肩をきつく抱きこむ。
「………っ」
消えてしまうことはわかっていた。
わかっていたのだから、…もっと言っておけばよかったと思うだけ。どうせ忘れてしまって、消えてしまって残らないのなら。
好きだとか、欲しいとか。一緒にいたいとか。