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あるべきところへ

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屋内に入るとそれまで白かった息が透明になった。座学続きの後に廊下に出ると寒いと思うのに、今はむしろ暖かい。
 二月も折り返していた。

 三年生が引退したサッカー部は人数が減った以上に活気を失っていた。
 逢沢傑というキャプテンを失ったからだ。引退後もしばらくは中等部の部活に顔を出してくれていたものの、高等部への内部推薦が正式に内定してすぐに高等部の部活へ参加するようになった。
 現キャプテンの佐伯もリーダーシップと実力を兼ね備えているが、傑の存在感には一歩及ばなかった。
 傑と同じチームであること自体が誇りでありプレッシャー。彼はそういう存在だった。
 三年生引退と同時に中高等部兼任の熊谷監督が高等部を中心にみるようになったのもある。
 鎌倉学館高等部は、傑やディフェンダーの国松を迎えた今年こそは、と盛り上がっているらしい。
 中等部に新しい監督を迎える話もあるが、今のところはそれも噂どまりでいまいち気合が入らない冬だった。
 しかし、駆にとっては中学最後の年だ。昨年は半年もチームから外れて過ごした。熊谷監督からもまだ厳しい目で見られている。
 まだ一度サッカーを捨てようとした時間を挽回できていなかった。

 部活が終わり、仲間たちが制服に着替える中、駆は新しいアンダーシャツに着替えてジャージを羽織るとそのまままた外へ飛び出した。
 いつもの自主練場所へと走った。校舎裏の、窓のない広い壁だ。部活後には必ずそこでシュートの練習を繰り返す。
 駆のポジションはフォワード。ゴールを決めることが仕事だった。それが小六以来上手くいかなくなった。
 校舎をぐるりと回っていつもの場所へ出ると、普段誰もないそこへ教師らしい背広の男性が立っていた。
 見覚えのない若い男だ。
 もうすぐ三月、新学期も近いので転勤してくる予定の教師だと思った。練習に使っている壁のボール跡を見つめている様子からして、噂の中等部サッカー部の新任監督かもしれない。
「こ、こんにちは」
 どちらにせよこれからお世話になる人だと思って丁寧にあいさつをした。
 彼は人の良さそうな笑顔で応じてくれた。やっぱり若い。
「その格好、中等部サッカー部員ですか?」
「はあ……えっと、新しい先生ですか?」
 遠慮がちに尋ねると天然らしい顔で後頭を掻いた。
「すいません、名乗るのが先でしたね。先生は先生でも江ノ島高校でフットボールクラブの顧問をしてます。岩城といいます。」
 ジャージ姿の生徒相手だというのに懐から名刺を探し、見つからず代わりのように握手を求めてきた。
 江ノ島というと、学校そのものはわかる。ただ、サッカー部のイメージはほとんどなかった。近年の大会で鎌倉学館と当たったことがないので試合を見たこともない。
 ベスト4まで残っていたこともないように思う。
「部活はもう終わってしまいましたか。用事で来たついでに見ていきたかったんですけど、グラウンドには誰もいなくて他の場所かと思ってウロウロしていたら迷ってしまって。」
「中等部の練習はさっき終わったところで、あー……えっと、もしかして逢沢傑を見に来たんだったらもう中等部では練習してないですよ。」
 昨年末頃はまだ偵察なのかスカウトなのか見学者もいたが、推薦入試が終わった後には一切なくなった。 そもそも傑が内部推薦で高等部へ進学するのは前々から決まっていたことだ。
 もしかするとこの人は傑ではなく佐伯の客かもしれない。彼もまたU15日本代表候補として声がかかるほどの実力者だった。
「そちらにも興味はあるんですけど、他にもいい選手がいっぱいいますから。」
 威圧感のまったくない押しの弱そうな人だった。迷子というのもそれに拍車を欠けた。スカウトを持ちかけてもあっさり断られてしまいそうな。
 鎌倉学館高等部といえば神奈川の強豪として有名だ。中等部生の多くがそのまま高等部に入学する。
 サッカー部にいて、あまり名前も聞かないような江ノ島高校の誘いを受ける選手はそういないだろう。
 いい選手がいっぱいいる、という言葉通り、年代別代表に招集されるほどではないにしろ上手い選手は何人もいた。
 傑や佐伯のような飛び抜けた選手はチーム全体を活性化させてレベルを引き上げる。
 ただし、いい選手の中に駆自身は入っていないと思った。
「この壁は、君が?」
 目の前の壁は元々テニス部員が壁打ちのために使っているものだ。
 しかしテニスボールでは狙わないであろう高さに二箇所、その真下の地面近くの計四カ所に大きなボール跡がある。
 壁に残る四カ所のボール跡はサッカーゴールを連想させた。
 駆は頷く。
「これから自主練ですよね。部活風景が見られなかった代わりというわけではないんですが、ちょっと見学させてもらってもいいですか?」
「えっと、シュートの練習ばっかりですけど……」
「ええ。お邪魔でなかったらお願いします。」
 押しが弱そうだと思ったばかりだが、岩城ににっこりお願いされると断りづらい。ギャラリーが気になる程繊細でもない駆に断る理由もなかった。
 誰に見られていようがやることは同じだった。
 壁の前を走りまわって壁に向かって蹴るを繰り返すのを岩城は飽きもせず見つめた。
 十分もそうしていた頃、
「反復練習」
 ずっと黙っていた岩城のつぶやきが、ちょうど壁にボールが当たって地に落ちるまでの間に耳に滑りこんでくる。
 駆は足元に拾ったボールをピタリと止めて振り返ったが、続けてくれと仕草で促されて仕方なく練習を再開した。
「シュートが苦手という様子でもありませんね。」
 同じ動作を繰り返しながらも集中力を切らして岩城の言葉に耳を傾けていた。
 独り言か話しかけられているのか分からないようなつぶやきの直後に左足から放たれたボールは球跡で描かれたゴールポストを外した。
「何か不安でも……?」
 今度こそ練習を中断した。左右平等に動かしていた左足だけを見下ろして太ももを鷲掴みにした。
 それは小学校の頃にチームメイトの膝に大きな怪我を作った足だった。
作品名:あるべきところへ 作家名:3丁目