あるべきところへ
二年以上も生活するとモノが増える。
ダンボール箱を数えてみたらこの家に引っ越した小六の時より明らかに多かった。
自分の手で運ぶのはせいぜい家の前までだし、これを荷造りしたのはほとんど母親なのだが、なんとなく面倒だな、と思った。
でも、今回の引越しは楽しみだった。
前回は生まれ育った日本から言葉の通じないオランダへやってきたお陰で苦労したが、今回はその逆だ。
元々住んでいた日本、神奈川の街に帰る。
「ねえ、本当に鎌倉学館じゃなくて良かったの?」
父の海外赴任が終わると聞いた時から何度目かの問答だ。ガランとした家の中を掃除していた母が雑巾を絞りながらあまり役に立っていない息子に尋ねる。
「しつけーな。もう手続きも終わってんだから言うなよ。」
「親に向かって“しつけーな”はないでしょ。」
子どもっぽい仕草でバケツの水を振りかけられた。引越しの準備をろくに手伝わないことへの抗議も混じっているらしい。
「傑くんは春から高等部だけど、中等部には駆くんとか帰国した奈々ちゃんも通ってるそうじゃない。あとは、サッカー部以外では平井くんとか河野くんも……」
いつの間にか日本にいた頃親しかった母親仲間に連絡をとっていたらしく懐かしい名前をポンポン挙げ連ねる。
奈々が帰国していたのは知らなかったが、駆達と同じ学校を選んだことには驚かなかった。
「傑さんとは一緒にやりたかったけど高等部だろ?それに中三の春から入部したってどうせ大会も出れねえし。」
「駆くんがいるじゃない。どこへ行っても同じなら仲の良い子がいるところの方が良かったんじゃないの?」
「駆は……駆とは校内試合とかじゃなくてちゃんと決着つけてえんだよ。」
「決着ってねえ、元々同じチームじゃないの。」
再び雑巾がけを始める母の目を盗んでガムテープで封をされていないダンボール箱を覗くとアルバムが入っていた。
めくると、まだ髪の長かった自分が少年サッカーチームの仲間たちと笑っている。
その中でも一番親しげに肩を組んでいる少年がいる。それが逢沢駆だった。
ハーフパンツから覗く膝を撫でて目を細めた。
隠しているわけではなかった。同じ中等部の部員ならみんな知っている。
言いふらすような話でもないと思いながらも駆は話し始めた。岩城がそう悪い人に見えなかったから。
「小学校の頃のチームメイトに、練習中に怪我をさせたんです。」
岩城の視線が鷲掴みにされた左足に注がれる。
そこには何もなかった。あの日も、駆は痛みなんか感じなかった。
でも、本来ならありえない方向に曲がった親友の膝と悲鳴を思い出すと、今でも自分の膝が疼くような気がする。
怖かった。直後には膝に力が入らなかった。
彼の抜けたチームでの練習に戻ってからもあのシーンを再現するかのようなスライディングを見ると足がもつれたようになってしまう。
あの時からもう三年が経とうとしていた。
時間と共に少しずつでもましになってきたが、調子を崩している間に周りに置いて行かれる感覚。
監督に期待されていないのがありありと分かる空気。
自分自身への苛立ち。会話の減った兄との距離。
トラウマだけでない色々なものが左足に絡みついていた。
岩城には言わなかったが、一度はサッカーそのものを諦めようとした。
「その……相手はサッカーを辞めたんですか」
遠慮がちに尋ねる。
「……わかりません。それからオランダに渡って、もう連絡をとりあってないんです。」
「オランダ?治療のために?」
曖昧に頷いた。親の仕事の都合もあったと聞いているが、治療もしているだろう。
続けているといい。サッカーを。
「きっと大丈夫ですよ。」
地面を見つめていた頭に柔らかな重みが乗った。柔らかな声だった。
「その彼もサッカーを好きなら。きっと治療してピッチに戻ってきます。」
好きなら。で止めた言葉が胸にぬるま湯を浴びせたみたいに染みこんでくる。
暖かで、それなのにスッと冷えていくのは、あの日から無傷でサッカーを続けてきた自分が何も信じていなかったからだ。
一緒にボールを追いかけた時間を思い出すたび、怪我の一件で自分自身が味わった恐怖や後悔にばかり浸って、相手のことをちゃんと考えていなかった気がした。
あの一件の後、兄とその話をしたのは一度だけだった。兄はあまり言葉をくれなかった。でも、ポツリと言った。
『アイツはお前のこともサッカーも嫌いにはならないよ』
つまらない気休めだと思った。何しろ怪我の後から引越しまでの間、どんな風に接しようとしても相手に避けられていたのだ。
練習をしていても試合があっても彼は観に来なかった。当然だと思う。
だから全てを嫌いになったかもしれないと幾度となく疑った。
以前はあんなに笑い合って、競い合って、当り前のように毎日同じボールを追いかけていたのに。
そっと顔を上げると岩城は大人らしい優しげな目をしていた。
それから思いついたようにワントーン上げた声で言う。
「そうだ、暖かくなったら一度うちの練習を見に来ませんか?」
きっと君に向いている。
キョトンとする駆の足元を強い風が走って止まっていたボールが転がった。
「暖かくなった?」
「ええ、天気のいい日は大抵浜でやってますから」
頭に浮かんだ見知らぬ学校の校庭が砂と海に覆いつくされ、人もボールも見えなくなった。
まだ風の冷たい二月だった。