高校生
「まだ封も開けてねえな」
鷹匠さんは水色の封筒を一度裏返して、それで興味を失ったようにブレザーのポケットに戻した。
そのポケットにガムが入っていないのを確認すると、反対側のポケットに手を突っ込んであっさりガムの包を発見した。
「ほらよ」軽く放り投げてよこしたガムを俺が取り落とすと「下手クソ」と言って笑ったので少しだけホッとした。
でも、側に戻ってきたときの無表情を見ていたら、やっぱり何か責められているような不安が眠気に満ちた頭にまとわりついて落ち着かなくなった。
ガムの銀色の包み紙をのろのろと剥きながら、何か言わなければならない気がして口を動かした。
「いいンすよ。どうせ断ンだから。」
でも、すぐに後悔した。何でわざわざ言ってしまったんだろう。
返された鷹匠さんのコメントが冷たく聞こえたからだ。
「俺には関係ねえよ」
何だか空回っている。口にガムを放り込んでもあまり目は冴えなかった。
鷹匠さんがぶっきらぼうな物言いをするのはいつものことだ。
機嫌が悪いと思う理由がない。でも、機嫌を損ねているような気がして。
ゆっくり俯くと借りっぱなしの眼鏡が目に留まる。
自分の身体で影になって、内側の青色が深く見えた。
勉強している間は厳しかったけど、これを勝手に触っても何も言わなかったし返せとも言わないのだから怒ってはいないと思う。
冷静にそう考えるほど、腹のあたりでわだかまるモヤモヤの正体がつかめなくなる。まるで度の合わない眼鏡のレンズ越しに見るみたいに。
ふと気配を感じて顔を上げると思いがけないほど近くに鷹匠さんの顔があった。目を細めて眉間にシワを寄せ。
反射的に仰け反って少し距離を取ってもまだ呼吸をしたら息がかかりそうで、小さく息を吸って吐いた。ミントのにおいが広がるようで、それも少し気恥ずかしかった。
「な、何してるンすか」
「黙ってどんな顔してんのかと思って眺めてた。」
「……そこまで寄らないと、見えないンすか」
鷹匠さんは答えずスッと身を引いた。
メガネを返しても畳んだまま、疲れたみたいに眉間を揉む。
「よし。勉強再開すっか」
その声は軽く響いた。言いながらメガネをかけ直す。
「え、まだ十分も経ってないっスよ!」
「ガム食ったろ」
「こんなんで目ェ醒めないですって」
「うるせェ、さっさと起きろ!」
教科書で頭を三度殴って俺の頭の起動も待たず、休憩前にやった公式の練習問題を見つけてきてくれる。
さっきやったばかりだというのに、すでに公式への当てはめ方が半分抜けて、公式だけが呪文のように頭上をさまよった。
「えーと、これを展開して……」
「するか!さっきやった式の簡単な応用だろうがっ」
「応用なんじゃないスか。卑怯っスよ。」
「お前フェイントかけられて文句つけねーだろうが!」
俺が黙ると鼻を鳴らした。そしてノートに書き写した式に横からペンを入れた。
すでに一時間も相手をしてくれているせいか、躓いているところすべてを見抜いているような的確さでヒントをくれる。少し丁寧すぎるぐらいだ。
導かれるまま計算して解くとすぐに次の問題を指示される。
「鷹匠さんって頭イイっすよね」
「元々悪いとでも思ってたか」
そういやこの間も“眼鏡すると頭よさそうに見える”とか言ってたな。チクチク蒸し返してくれる。結構根に持つタイプか。
「嫌な邪推すんのやめてくださいよ」
勉強の出来はともかく、高校に上がる前から代表チームで一緒に過ごしてこの人の頭の回転の速さは知っていた。
冗談を納めて首を左右に伸ばしながら真面目に答えてくれる。
「鎌学は頭のレベルもちょっとばかし高かったからな。外部受験は勉強すんだよ。」
「スポーツ推薦でしょ」
「それでも入学してから授業についてけねーんじゃ部活どころじゃねえだろうが」
それから少し間があってまっすぐ俺を見て言葉を足した。
「お前と一緒にやりたかったからな。」
茶化さない。笑顔も見せない。胸の奥がくすぐったくて笑って返したいのに、あんまり真面目な顔で言うから俺も茶化せない。
俺がいるから鎌倉を選んだというのは一年前に聞いた。
その時も驚いて照れたけれど、あの時は周りに仲間がいて茶化してくれた。
それが今はない。
「あ……ありがとうございます」
その返事が合っていたのか間違っていたのか、それ以上のコメントはなかった。返事の代わりに眼鏡のブリッジを押し上げる仕草が神経質な教師みたいだ。
そしてノートの上を滑るペンの動きで勉強に引き戻された。
けれど、ここ十分ほどのの真新しい記憶が勉強を邪魔するように次々に思い返されて落ち着かない。勉強へのやる気が出ないから頭が勝手に現実逃避するのかもしれないが。
眼鏡で普段とは印象が違う横顔を盗み見る。
「サボるな」
すぐにバレた。
「なんだよ」
用事がないなら頭と手を動かせと言わんばかりに睨まれる。
当然、数字のことよりも話題探しに頭を動かすことを選んだ。
「えっと……あ、さっき、さっき、結局見えたンすか?俺の顔。」
つまらないことを訊いてしまった。また「集中しろ」と怒られるかもしれない。
でも、予想に反して鷹匠さんは機嫌の良さを少しだけ顔に出して答えた。
「ああ、しょぼくれた顔してた。」
「なんスかそれ。別にしょげてなんか」
「図星を指されたみてえなうろたえ方してんじゃねーか」
あんなタイミングで言われるほど落ち込むというのも変だ。鷹匠さんは何に落ち込んでいたのかつっこんだり、からかったりはしなかった。
何とも返せなくなって首を傾げる俺に向かって、どういうわけか、眼鏡の奥の目元を僅かに緩ませて「お前ボール持ってないと鈍いよな」と呟いた。
「そうスか?」
その言われようが納得いかなくてつっかかると、
「こういう応用問題にどう公式当てはめるか全然気づかねえだろうが。」
そう言ってノートに写したっきりの問題をペン先で叩かれると黙るしかなくなった。
一年生の教室も落ち着きを見せ始めた五月、中間テストが行われた。
テスト前には熊谷監督から「赤点はとらないように」とキツく言われ、オレ個人としては鷹匠さんの睨みもあり、いつにないプレッシャーがかけられながらも無事追試を免れた。
答案が返却されたその日に鷹匠さんに報告すると「案外とれてるな」とコメントされた。
「素直に褒めてくださいよ。」
「一問目で凡ミスしておいて何言いやがる」
答案は見せずに点数だけ報告するべきだったか。
「これで落としやがったら俺がこの学校入った意味がなくなるとこだったな」
「一山越えたんだから大丈夫ですって」
「期末までの間だけじゃねえか」
「そン時はまたよろしくお願いします」
手を合わせて拝むと、ずり落ちてもいない眼鏡のブリッジを押し上げながら
「仕方ねえな、卒業までは面倒みてやる」
「いや、そこまでは」
「あぁ?」
そこで引率顔で一緒に二年生教室までやってきた国松が控えめに言った。
「鷹匠さん、尽くしますね」
鷹匠さんは国松を前に一息ついた。そして、身に覚えのある頭突き。国松は額を押さえて屈み込んだ。
それからはもう鷹匠さんと目が合わず、また眼鏡のブリッジをに指をかける。