走る
シャツを脱いで絞るとたっぷり海水が出た。こんなに派手に絞れるといっそ清々しい。
思う存分シャツを捻っていたら風が吹いて濡れた肌を冷やしていった。大きなくしゃみが一つ。
「これ着てろ」
潮水でべたつく肩を乾いたシャツがふわりと包みこむ。サイズが一つ大きい。
「いいよ、日比野が寒くなるよ」
脱ごうとした手を押し止められた。シャツを羽織った駆の代わりに日比野は上半身が素っ裸になる。
「俺は濡れてないからお前が着てろっての。一っ走り荷物取ってくるからそのへん座ってろよ」
その言葉に甘えて駆が待っている間に日比野は二人分の荷物を取って戻ってきた。帰宅したらすぐ洗濯機に放り込まれる予定の汗でべたつくシャツを日比野が着て、駆はジャージに着替えた。パンツも脱ぎたいぐらいだったが、暗くなったとはいえ人通りのある道沿いの浜で股間を晒すのは遠慮した。
日比野の奢りの缶コーヒーで暖をとりながら歩く帰り道、日比野はずっと風上を選んで歩いた。サイズの合わない長袖シャツと長身の風よけに守られていた。
歩道の細い道でぶつかり合った腕の温もり。触っちゃいけないものに触ったように慌てて体を離した日比野が一段高い歩道から片足だけ落ちた。髪をいい加減に拭いてさっさとタオルをバッグに戻したら、「お前は昔っからそうだ」なんて説教臭く言った日比野が自分のタオルで頭を乱暴に拭いた。
家に近づいてくると小学校の頃に一緒に通った道に出る。日比野がそこを通るのは久しぶりだった。あの店が潰れただの新しい店が建っただの、ポツポツ話すと話題は尽きなかった。
「あれ、あそこコンビニになってる」
「四年ぐらい前にはもうコンビニになってたよ。駄菓子屋のばあちゃんが倒れて入院しちゃって」
急に閉店したもんだから名残り惜しんでお菓子を買い込む暇もなかった。
日比野がいなくなって一年が経った頃だ。あの頃は好きなものは何でも突然身近から消えていくように感じて随分落ち込んだ。
「ばあちゃん生きてんのか?」
「たまにコンビニの店番してるよ。」
「レジなんか使えるのかよ。どんだけいっぱい駄菓子持ってっても全部そろばんで計算してたぜ。」
「そういえばエプロンつけてレジにいるのは見るけど会計してるのは見たことないなあ」
コンビニになってからはあまり店にも入らなくなった。それでも明るい店内に初めてばあちゃんの姿を見たときはホッとした。そこだけ懐かしい場所のままに見えた。
コンビニの前を通りすぎて歩道橋と横断歩道を二つ渡ると駆の家が見えてくる。足を緩めたのは駆だった。
「……いつから、俺のこと、その……」
好きというのを躊躇って口ごもると言い切るのを待たずに返事があった。追いかけっこを止めた時点で観念したのか、質問を待っていたみたいに潔くはっきりと言う。
「自覚はオランダに引越してから。」
「えっ?!」
駆が足を止めたので一歩先で日比野も立ち止まった。
「怪我してサッカーができないどころか今まで平気で通ってた学校さえ坂あるし歩いていけなくて親に送り迎えされて、ダセェのが嫌で見られたくなくて駆のこと避けてた。」
「怒ってるから避けられてるんだと思ってた。」
「思い通りにいかないことばっかでイライラしたけど怒ってたことなんかねえよ。それに目の前で膝庇って動きまわってたらお前気にしただろ?」
そのとおりだ。何度か身の回りのことを手伝うと申し出て断られていた。それもこれも全部怒っているからだと思っていた。
「引越しで駆が近くにいなくなったら楽かと思ってた。でも、何かあるたび思い出すのはお前のことばっかりでさ。そんなとき向こうで近所に住んでたオッサンが男と結婚したんだ。オランダって同性でも結婚できるんだよな。確かそれがきっかけだったと思う。もしかして“恋”なんじゃねえのかって考えたらもう打ち消せなくなった。」
恋、というところだけ声が小さくなる。
「ネットとか調べても傑さんしか出てこねえしお前がどうしてんのかちっとも分かんなくて、高校入学の頃に日本に戻ることが決まった時はどうせオランダで四年間妄想してたお前と現実に成長したお前のギャップで頭も冷えると思ってた。でも、」
先を言う代わりに少し低い位置にある駆の頭を乱暴にかき混ぜる。
「日比野が伸びすぎなんだよ!」
手を払いのけるとその反応が嬉しいみたいに笑った。
「どうにもならねーとわかってたし再会してからも言うつもりなかったのに、混乱させてわりィな。もうこの話もしねえし、安心しろよ。」
勝手に話を切り上げて歩き出した。後ろで立ち止まったままの駆には後頭しか見えない。日比野は歩いているのに砂浜で走っていたときみたいだった。言いっぱなしで駆の答えを拒んで不安や後悔の表情も見せない。
駆だって明確な答えなんか持っていなかった。今までそんな風に考えたことがなかったからだ。今まで迷う余地もなく友達だと思っていた男を好きかどうかなんて。それでも日比野が背を向けていたら追いかけずにいられない。腕をつかんで。横に並んで。振り向かせて。
驚いた様子の日比野の眉根が苦しそうに寄せられていた。
「考える!考えるから……!」
どう言えば傷つけないで済むかわからない。いい加減に断るのも受け入れるのも不正解の気がした。まだ混乱していて、考えたからといって男相手に恋愛なんかできるのかもわからなかった。
「無理に合わせなくていいって」
それでも駆は首を振った。ギュッと腕を掴んだ。半袖のシャツを着ているせいで直の体温が手のひらに染みこんでくる。駆より太い筋肉質の腕。小学校の頃から体温が高めだった。
ふわりと頭をよぎる思い出のぬるま湯のような暖かさ。自分で自分に突きつけた幼馴染みとの恋に動揺して全力疾走した時みたいに内側から強く胸を叩く心臓。
腕を掴んだ手が緊張で汗ばむ。
自由な方の日比野の腕が迷うように何度か宙を掻いてから優しく生乾きの頭に触れた。
「サンキュ」
日はとっくに落ちきって気温も下がっていた。それなのに海に落ちたのが悪かったか知恵熱か頭は熱くて背中がざわざわした。
そこから二百メートルほどの道を並んでゆっくり歩いた。もう何も言わず、それでもゆっくり歩いた。