兄ちゃんのボール
服なんかサイズが合わなくなる頃には肘や膝はすり減って穴もあくしシャツの首も裾も伸びていた。それでも着ると言って、母さんには良い子だと褒められながらも引き止められた。
駆があまりにこだわりがなさすぎて、ボロボロの服を平気で着たから親の目から見てもみすぼらしく思えたんだろう。
兄弟一緒に通っているサッカークラブの仲間にはすぐにおさがりを見破られるし、それでも駆は誇らしげに言う。
「そう、兄ちゃんの!」
「普通おさがり嫌じゃねェ?」
重ねて訊かれても何故そんなことを訊かれるのかわからないとでも言うように首を振る。
でも、その話題の最後には「まあ、兄貴が傑さんだしな」で納得されてしまう。
横で会話に混ざるでもなく立っていた俺は納得がいかなかった。
・・・・
散らかした部屋を渋々片付けていたら棚に本を捩じ込んだ拍子に棚の上のものが転がり落ちてきた。一つ片付けた端から一つ散らかった事実が心を折りにくる。
この部屋を自分の部屋にしてから十数年。モノを捨てるのが苦手なお陰で散らかり放題だ。
気を抜くと散らかしてしまって、それを放置すると母親が踏み込んでくる。
見つかってまずいものなどそんなにないつもりでいてももう高校だ。勝手にあれこれ見られるのは嫌だ。
隣の部屋では弟もまた同じような作業をしていた。
「そんなところばかり似て困るわ」
そうため息をついた母さんは一階でのんびりお茶なんか飲んでいる。
「ったく!」
早々に休憩を決めた。とはいえ学習机の上を片付ける際に下ろしたプリントや本が散らばっていて床は見えない。
仕方なく足元をみると、さっき棚から落ちたピカピカのボールが目についた。
ピカピカだけど、棚の上でずっと放置されていたのでホコリを被っている。
頓着せず袖でホコリを拭うと、誰かのサインが書かれていた。
筆記体のアルファベットだろうか。誰のものか考えてみたけれど、読めない。
横には「カケルくんへ」と添えてあった。
なるほど、自分がもらったものではないから思い出せないんだ。
それと同時に小学校の頃の思い出が蘇ってくる。
サインの主には申し訳ないが、駆のわがままで押し付けられたボールが好きになれなくて、小学生には高い棚の上に飾ってそれっきりだったのだ。
駆本人もすっかり忘れて取り返しにこない。
芋づる式にいろんなことを思い出して可笑しくなった。
ちょうどよく貸していたものを返しに俺の部屋に顔を出した駆は一人で笑う俺に顔を顰める。
「兄ちゃん…何笑ってるの?」
普段から愛想はない方だけれど、そんなあからさまに不気味なもののような扱いを受けると少し傷つく。
「いいところに来たな。これ、お前に返すよ。」
腕いっぱいに抱えていたサッカーの本や漫画や、俺のものでもないCDを床の雑誌の上に置いた駆に懐かしいサインボールを投げてやる。
そこで一つのボールと入れ替わりに十品以上の返却品が部屋に増えたことに気づいてがっかりした。
せめて自分のものでないものはこの場で突き返そうと思って駆の足元で分別をする。
すると、数秒呆けていた駆が頭上でわめき始める。
「わー!これ、兄ちゃんがトレセン合宿行ってたときの…っ!」
この分だと俺が思い出したエピソードも一緒に思い出したようだ。
結局CD三枚しかなかった返却品で頭を小突いてやりながらダメ押しのように「交換したやつ、な」と教えてやったのはちょっとした八つ当たりだ。部屋が片付かないことの。
駆は今更な言い訳をするか一緒になって笑うかすると思っていた。
それが、何が引き金か頬を染めて、ついには頭を抱えてしゃがみ込んだ。
しゃがむ際に腕で引っ掛けた雑誌タワーが倒壊する。
いい加減に積んでいるように見えても分別して避けておいたものだ。気をつけて欲しい。
「変なこと言ったことまで思い出しちゃったっ!わー、もう兄ちゃん忘れてよ!」
「変なことって“兄ちゃんのボールがいい”?“兄ちゃんのボールの方がカッコいい”だっけ?」
「黙って、黙って、黙れよー!」
耳まで真っ赤にして恥ずかしがってくれて気分がいい。やっと仕返しができた。
今なら、幼い駆が何であんな駄々をこねたのか、今こんなに恥ずかしがるのかがわかる。
わがままに隠れた強烈な愛情表現を理解できる。
「一生忘れねーよ。」
きっともう「兄ちゃんのボールが欲しい」なんて言ってくれない。
あの頃みたいに俺だけを見ていてはくれない。あの頃は特別だった。
目の前を走れば簡単に駆の視界を占領できた。
「忘れてよー!」
すがりついてきた拍子にまたその辺に積み上げてあった荷物が雪崩を起こした。
これでは一向に片付けが進まない。
小学校の頃と変わらず要求を飲ませるまで動かないと座り込んだ駆は力づくでつまみ出して扉を閉めた。
そんなに恥ずかしがるほどのことかとも思う。
扉の内側には散らばった雑誌の上にサインボールが転がっていた。
それを再び慎重に棚の上に置いて袖を捲り上げる。
扉一枚隔てた廊下からはまだ駆の唸り声が聞こえてきて、雑誌を集めなおす作業だって笑いながらできそうだった。