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願い事と子犬

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走り切れたのが奇跡だと思う。
 だけど奇跡はそれだけだった。
 三点目を決められてからあからさまに味方の足が止まってきているのを感じた。こちらの選手だけに重力が増したみたいだった。一点ずつ肩に重石が乗っていくのが見える。二つまで我慢して平気の顔で走りまわったそれが、三つ目でついに心を潰した。
 ここまできたのに。
 守備に攻撃にと走りまわった足はとっくに限界だった。違和感もある。それでも自分が手を抜いたら、諦めたらチームみんなが諦めてしまう。こんなところで終わらない。
 眉間に深いシワを刻んで太ももを手のひらで叩いて叱咤しながら地面を蹴った。
 いつの間にか、たった一人で。

 短い初詣シーズンが過ぎた神社は閑散としている。
 岩城も初詣は済ませていた。こんな時期に神社なんかに来るのは十五年の人生でも初めてだ。冬の境内がこんなに寒々しく見えるのだと知らなかった。
 無作法だとは思いながらもジャケットのポケットに手を突っ込んだまま賽銭箱の前まで来て手を合わせた。つきさっき病院で財布の中の小銭が完売したので賽銭はツケということにした。次に来るのは多分夏祭りの時だろうが。
 木々が風にざわめく音しかしない境内で一人合掌して目をつぶる。願い事をしようと思って来た。
 今日は部活を休んでかかりつけの医院に行ってきた。この間の試合で痛めた足を診てもらいに。しばらく練習は休むように言われた。なかなか「はい」と言えなくて説教を食らった。
 帰路についてもまだ納得がいかず、だからといってこれから部活に顔を出す気にもなれずにフラフラとここまできた。
 鳥居が見えたときに神頼みだと思ったのに、いざ願い事と思うと不思議と何も出てこない。
 足が早く治りますように?次こそ勝てますように?
 そう思わないわけではない。でも、何かが違う気がした。
 お参りで手を合わせたり、流れ星に願いをかけるときは頭の中で文章にして音読する。漠然と願うより内容をはっきりさせたほうが叶う気がする。
 いつもだったら心で三回唱えてすぐに目を開ける。でも願い事がまとまらなくてずいぶん長いことそうして手を合わせていた。
 目を開けたのは願い終わったからじゃない。背後からボールの弾む音がして振り向いた。
 石畳を斜めに転がってくるボールに足を出して慣れた仕草でキープしてふと違和感を覚える。
(4号……いや、3号か)
 蹴り慣れた高校サッカーで使う5号球より小さかった。小学生用の一回り小さいボールだ。
 その見立ての答え合わせみたいに砂利の向こうから小さな男の子が走ってくる。小学生より小さく見えたが。
「ボール!ボールとめてー!」
 すでに止まっている。甲高い声で繰り返し叫びながら石畳に踏み込むとわざとらしく膝に手をついて肩で呼吸をした。車のワッペンがついた青いジャンパーを着ていた。髪は少し長めで、中性的なデザインの服を着ていたら咄嗟に男の子とわからなかったかもしれない。
 ほっぺたと鼻の頭を真っ赤にしてキラキラした大きな目で見つめられるとちょっと狼狽えてしまう。潤んでいても子供の目は白目がやたらと澄んでいてギクリとする。
「これ、君の?」
 上半身全部使って頷いた。弱い力で蹴ってやったつもりが少し強かったようだ。小さな足の爪先で少し跳ねて少年はよろめいた。
 細い足と小さな靴に丸い大きめの頭。子供ってなんでこんなにアンバランスに出来ているんだろう。砂利を駆けてくる間もそのうち転ぶんじゃないかとハラハラした。
 上手くボールを受け止められなかったくせに一丁前の顔で笑う。
「お兄ちゃん上手いね」
「ハハッ。これでもサッカー部のキャプテンなんだ」
「じゃあ何でここいるの?サボり?」
 子供って苦手だ。悪気がない。遠慮もない。なんと返そうか迷っている間によちよちボールを蹴って近くまでやってきた。やっぱり小学生用のボールでもまだ大きいようだ。
「お兄ちゃんリフティングできる?」
 出来ると答えた瞬間にやらされそうだが出来るものを出来ないと言うのも納得がいかない。
「出来るよ」
「何回できる?十回?百回?ひゃくちょう回?」
 千の位がすっ飛ばされた。百兆もどれぐらいか理解はしてないだろう。
「うーん……いっぱい」
「すげー!」
「ありがとう」
 予想に反して「やれ」とは言われなかった。ヘタなドリブルで周りをうろちょろしたかと思うと無遠慮に顔を近づけてきた。
「お兄ちゃん怪我してるの?」
「!」
「病院の匂いするよ」
「ああ。うん、今病院帰りなんだ」
「じゃあ治るまでサッカーできないの?」
「……うん」
「いつ治る?」
「えっと……」
「春ぐらい?」
(…………何で春なんだ)
 でもいいところを突いてくる。向こう三ヶ月は無理をするなと言われている。その間練習を休むことに納得はしていないけれど。
 曖昧に頷くと途端に少年が同情的な顔で何度もウンウン頷いた。
「ボクも春までダメなんだよ。一緒だね」
「春までダメ?」
「うん。兄ちゃんと一緒のサッカースクール。小学生じゃないとダメなんだって」
 なるほど。やっぱりまだ小学校に上がっていないらしい。
「サッカースクールじゃなくてもサッカーはできるよ」
「一人じゃできないもん」
 拗ねて蹴りつけたボールは真っ直ぐ飛ばずに斜めに転がって砂利で止まった。少年は取りに行く様子がない。そりゃそうだ。癇癪を起こして投げた物を拾い直したり、壊したものを直したりするのは面白くない。
 歩いてボールを拾って向かい合った。同じ側に立ったら二人でサッカーはできない。
「ほら、これで一人じゃない」
 ボールを放ってやると黒目がちで真ん丸な目をパッと輝かせた。医師には注意されたばっかりだけど、小学生にもならない子供の相手ぐらい大丈夫だろう。
 拾った位置から少年が蹴ったボールは岩城の足元まで届かなかった。それに合わせて岩城が距離を詰めて、パスの強さも加減した。
 子犬と遊んでるみたいな気分だ。少年の足元を狙ってパスを出しても上手く拾えず転がっていくのを少年が追いかける。その姿がコロコロしていて犬みたいだ。
 力いっぱい蹴っても思った方向へ向かわず岩城が笑いながら拾いに行くこともあった。ちょっと上手く蹴れると得意げな顔。大きく外すと唇を尖らせたり大きな声で「おしい!」なんて叫んだり。
「惜しくないって」
 笑いながら本殿の柱にぶつかりそうになったのを拾って足元に留めた。
「ボクのゴールはそこからそこまでだからおしいの!」
「パスじゃなくてシュートだったのか」
 ゴールにしてもセーフ範囲が広かった。それでも徐々に少年のゴール幅は狭くなってパスが取りやすくなってくる。目の前で成長している。
 最初は一球ごとに大はしゃぎしていたのが段々静かになった。真剣な顔。それも良かった。
 蹴ったボールが返ってきて、それをまた返すと嬉しそうに蹴り返してくれる。
 ボールをやりとりし始めたら少年のサッカースクールの話も、岩城の怪我の話もどうでもよくなった。少年はボールを追いかけることに夢中で何も訊かない。岩城も少年を見ているのが面白くてまとまらない願い事のことも忘れた。
「あ、兄ちゃん!」
作品名:願い事と子犬 作家名:3丁目