ひかりについて
遠くから重い音が鈍く響く。
研究室の窓からはその光は見えない。音だけが腹にくるような低音で届いて、その度森永は顔が上がりそうになるのを我慢した。
そわそわする森永の気配に宗一は気付いていて、何度目かの同じ台詞を口にした。
「行きたいなら行ってもいいぞ」
「先輩は……、」
「行かん」
手元の顕微鏡から目も上げずに宗一が言う。
ぐすん、と森永は泣き真似をしつつ、薬品の瓶の蓋をきゅっと閉めた。
今日は花火大会の日だ。
森永と宗一は、そんなイベントとは関係なく今日も今日とて研究室に篭っている。
研究は予定よりも押している。結果が最初に立てた予想と違うので、仮定を立てるところからやり直した。うっすら殺気立つほどの雰囲気に、森永は常よりも気を遣っている。少しでも宗一が苛つかずにすむよう、行動を先読みして必要な物の準備をし、コーヒーは適度に切れないように気をつけている。
しかし今日は花火大会の日だ。――気にするなという方が無茶な話である。
「だから、気になるなら行けっつーとるだろーが」
「だって先輩と一緒に見たいんですよ……」
「知るか。花火より人の頭しか見えんようなの俺は嫌だ」
「そこまで近くに行かなくても良いですから。ちょっとだけでも……」
「うるさい、行きたきゃ一人で行け」
けんもほろろに言い捨てられて、森永は数秒だけ恨みがましく宗一の横顔を眺めた。
一見冷たい印象を与える横顔である。けれど本当は暖かいことをもう知っている。……知っている人間は少ない。特に大学内にはきっと自分だけだ。
宗一にばれないように小さく苦笑した。気を取り直して、次に使う器具の準備を始める。
身を翻した森永の背を、そっと宗一が目で追ったことを森永は知らない。
「森永ー、巽さーん!!」
がらりと扉が開いたのは、それから2時間ほど後のことである。
片づけをあらかた終えて後は白衣を脱いで帰るだけ、というときに、思わぬ来訪者があった。
「山口?」
目を丸くして森永が名前を呼ぶ。呼ばれた本人はひどく楽しげで、ほんのりと紅潮した頬が酔っているのだと伝えてくる。
宗一の眉間に皺が寄るのに冷や冷やしながら、森永は研究室へ入ってくる山口を遮るように入り口へ近づいた。
「ちょっと、どうしたんだよ珍しい。ちょ、酔ってる奴が研究室入るなって」
「悪い悪い。ふたりとも今日も学校に缶詰って聞いたからさ、お土産持ってきたんだよ」
「土産?」
「これ。近くの公園でやろうぜ。巽さんも、ね?」
がさ、と音を立てて山口がコンビニの袋を差し出す。
袋からはみ出たものを見て、森永は笑顔が引きつるのを隠せなかった。山口はへらりと笑う。
「おまえ……ほんと酔ってんだろ!」
ひょいと森永の背後から宗一が顔を覗かせた。見えない目線が山口の手元に落ちるのを感じる。
その先には子供向けの花火セットが、この場に合わない陽気なイラスト付きで袋から盛大にはみ出ているのだ。しまった、と森永は思う。どんな怒号が響くかと思うと空恐ろしい。
少しの間を置いたあと、森永の緊張をよそに、宗一は落ち着いた声で言った。
「…………何考えてんだおまえ。でも買っちまったもんは仕方ねぇし、いいぞ別に」
――多分に、呆れを含んだ声ではあったけれど。
大学からほど近くの公園で、運良く砂場に埋まった小さなアルミ製のバケツを見つけた。
らしくなくはしゃぐ山口に森永は困惑を隠せない。こいつってこんな奴だっけ、と森永は軽い頭痛とともに思う。今までの自らの失態はこの際遠くへ置いておいて、――拠りによって、宗一と一緒の時に。
ん、とライターを渡す宗一に、山口は楽しそうにひとつめの花火に火をつけた。
勢いよく飛び散る火花に、ゆるく流れる安っぽい火薬臭。
懐かしい、と無条件に思う。
思えばいつ振りだろうか。思い返せば、遠く、九州での記憶にまで遡る。
見ない振りをしたいけれど、じくじくといつまでも胸は痛んだ。――気にしたところで詮無いことだと、いつも自分に言い聞かせるのに。
ふるりと頭を振って、森永は地面に置かれた花火をひとつ手に取った。
どうせならと山口の隣にしゃがんで、ふたり、子どもみたいに笑い合う。
途中で買ってきたビールが旨い。喉から胃の腑までを冷えた感覚が落ちていく、一日研究室に篭っていたのが嘘みたいだと思った。
溺酔するわけにはいかないので、1本ずつ森永と宗一が買ってきたものだ。棚に伸びる山口の手をぺしっと宗一が叩き落したのが森永には笑えた。
彼の中に確固とある他人との線引きが、どうやら自分を介してのみゆるくほどけることがある。
例えば兄だったり、かつての恋人であったり、穏やかな関係を探すならば、恐らくは山口が唯一の存在ではあるが。
『――それ以上飲んで、他人に迷惑をかけない自信があるか?』
何でもないように言われて、山口は大人しく「すみません」と手を引いた。はしゃいではいるが我を忘れているわけではない。
それでも炭酸への未練が捨てきれないのか、サイダーのペットボトルを取ってきてにこにこしながら会計していた。ほっと森永は息を吐いた。
宗一も変化している、と思う。自分にだけではなくて、自分を纏う周囲に対しても。
面映いような嬉しい気持ちがあって、コンビニを出て公園へ向かう足取りがひどく軽やかなのを自覚してしまって苦笑した。
いくつかの花火を終えると、小さな袋に入った花火はすぐに残りわずかになった。
それまでずっとベンチで座って煙草を吸っていた宗一が、つまらなそうに近づいてくる。
「ライターですか?」
「いや、煙草が切れた。買ってくるわ」
言ってふたりの側を過ぎて公園を出ようとする宗一に、山口が「俺が行きます」と立ち上がる。
「ちょうど花火ももう線香花火だけだし。巽さん、これなら嫌じゃないでしょう? 買ってきても煙草吸う時間もないくらいだし、俺が行きますからせっかくだし少しくらい遊んでください」
「別にそんな変な気ぃ遣って貰わんでもいいぞ」
「や、無理言って引っ張り出したの俺ですから」
宗一の手から空いた煙草の箱をぱっと取って、山口はさっさとコンビニへ向かってしまった。少しの逡巡のあと、宗一は意外にも森永の側へ寄ってきた。
嘘、と思わず言いそうになるのを我慢する。線香花火を手にとってライターでそっと火をつける宗一を思わず凝視していると、ぱちぱちと爆ぜる火種の向こうで宗一が文句あるか、とでも言いたげに睨んでくる。慌てて森永は自分も線香花火を1本持った。無言で宗一が火を起こす。先がぼうっと一度燃えてからじわりと熱の灯る様は、それまでの花火とはまったく違う風情だ。
少し離れた場所にあるコンビ二へ行って帰るころには、頼りない線香花火は終わってしまうかも知れないと思う。
山口は故意に線香花火だけを後に残していたようだ。このタイミングで場を離れるということは、全部終わらせてしまってもきっと文句はないのだろう。
「……怒ってないんですか?」
「は?」
「いや、付き合ってもらえるとは思わなくて」
「…………おまえ、花火見たかったんだろ」
「へ?」
研究室の窓からはその光は見えない。音だけが腹にくるような低音で届いて、その度森永は顔が上がりそうになるのを我慢した。
そわそわする森永の気配に宗一は気付いていて、何度目かの同じ台詞を口にした。
「行きたいなら行ってもいいぞ」
「先輩は……、」
「行かん」
手元の顕微鏡から目も上げずに宗一が言う。
ぐすん、と森永は泣き真似をしつつ、薬品の瓶の蓋をきゅっと閉めた。
今日は花火大会の日だ。
森永と宗一は、そんなイベントとは関係なく今日も今日とて研究室に篭っている。
研究は予定よりも押している。結果が最初に立てた予想と違うので、仮定を立てるところからやり直した。うっすら殺気立つほどの雰囲気に、森永は常よりも気を遣っている。少しでも宗一が苛つかずにすむよう、行動を先読みして必要な物の準備をし、コーヒーは適度に切れないように気をつけている。
しかし今日は花火大会の日だ。――気にするなという方が無茶な話である。
「だから、気になるなら行けっつーとるだろーが」
「だって先輩と一緒に見たいんですよ……」
「知るか。花火より人の頭しか見えんようなの俺は嫌だ」
「そこまで近くに行かなくても良いですから。ちょっとだけでも……」
「うるさい、行きたきゃ一人で行け」
けんもほろろに言い捨てられて、森永は数秒だけ恨みがましく宗一の横顔を眺めた。
一見冷たい印象を与える横顔である。けれど本当は暖かいことをもう知っている。……知っている人間は少ない。特に大学内にはきっと自分だけだ。
宗一にばれないように小さく苦笑した。気を取り直して、次に使う器具の準備を始める。
身を翻した森永の背を、そっと宗一が目で追ったことを森永は知らない。
「森永ー、巽さーん!!」
がらりと扉が開いたのは、それから2時間ほど後のことである。
片づけをあらかた終えて後は白衣を脱いで帰るだけ、というときに、思わぬ来訪者があった。
「山口?」
目を丸くして森永が名前を呼ぶ。呼ばれた本人はひどく楽しげで、ほんのりと紅潮した頬が酔っているのだと伝えてくる。
宗一の眉間に皺が寄るのに冷や冷やしながら、森永は研究室へ入ってくる山口を遮るように入り口へ近づいた。
「ちょっと、どうしたんだよ珍しい。ちょ、酔ってる奴が研究室入るなって」
「悪い悪い。ふたりとも今日も学校に缶詰って聞いたからさ、お土産持ってきたんだよ」
「土産?」
「これ。近くの公園でやろうぜ。巽さんも、ね?」
がさ、と音を立てて山口がコンビニの袋を差し出す。
袋からはみ出たものを見て、森永は笑顔が引きつるのを隠せなかった。山口はへらりと笑う。
「おまえ……ほんと酔ってんだろ!」
ひょいと森永の背後から宗一が顔を覗かせた。見えない目線が山口の手元に落ちるのを感じる。
その先には子供向けの花火セットが、この場に合わない陽気なイラスト付きで袋から盛大にはみ出ているのだ。しまった、と森永は思う。どんな怒号が響くかと思うと空恐ろしい。
少しの間を置いたあと、森永の緊張をよそに、宗一は落ち着いた声で言った。
「…………何考えてんだおまえ。でも買っちまったもんは仕方ねぇし、いいぞ別に」
――多分に、呆れを含んだ声ではあったけれど。
大学からほど近くの公園で、運良く砂場に埋まった小さなアルミ製のバケツを見つけた。
らしくなくはしゃぐ山口に森永は困惑を隠せない。こいつってこんな奴だっけ、と森永は軽い頭痛とともに思う。今までの自らの失態はこの際遠くへ置いておいて、――拠りによって、宗一と一緒の時に。
ん、とライターを渡す宗一に、山口は楽しそうにひとつめの花火に火をつけた。
勢いよく飛び散る火花に、ゆるく流れる安っぽい火薬臭。
懐かしい、と無条件に思う。
思えばいつ振りだろうか。思い返せば、遠く、九州での記憶にまで遡る。
見ない振りをしたいけれど、じくじくといつまでも胸は痛んだ。――気にしたところで詮無いことだと、いつも自分に言い聞かせるのに。
ふるりと頭を振って、森永は地面に置かれた花火をひとつ手に取った。
どうせならと山口の隣にしゃがんで、ふたり、子どもみたいに笑い合う。
途中で買ってきたビールが旨い。喉から胃の腑までを冷えた感覚が落ちていく、一日研究室に篭っていたのが嘘みたいだと思った。
溺酔するわけにはいかないので、1本ずつ森永と宗一が買ってきたものだ。棚に伸びる山口の手をぺしっと宗一が叩き落したのが森永には笑えた。
彼の中に確固とある他人との線引きが、どうやら自分を介してのみゆるくほどけることがある。
例えば兄だったり、かつての恋人であったり、穏やかな関係を探すならば、恐らくは山口が唯一の存在ではあるが。
『――それ以上飲んで、他人に迷惑をかけない自信があるか?』
何でもないように言われて、山口は大人しく「すみません」と手を引いた。はしゃいではいるが我を忘れているわけではない。
それでも炭酸への未練が捨てきれないのか、サイダーのペットボトルを取ってきてにこにこしながら会計していた。ほっと森永は息を吐いた。
宗一も変化している、と思う。自分にだけではなくて、自分を纏う周囲に対しても。
面映いような嬉しい気持ちがあって、コンビニを出て公園へ向かう足取りがひどく軽やかなのを自覚してしまって苦笑した。
いくつかの花火を終えると、小さな袋に入った花火はすぐに残りわずかになった。
それまでずっとベンチで座って煙草を吸っていた宗一が、つまらなそうに近づいてくる。
「ライターですか?」
「いや、煙草が切れた。買ってくるわ」
言ってふたりの側を過ぎて公園を出ようとする宗一に、山口が「俺が行きます」と立ち上がる。
「ちょうど花火ももう線香花火だけだし。巽さん、これなら嫌じゃないでしょう? 買ってきても煙草吸う時間もないくらいだし、俺が行きますからせっかくだし少しくらい遊んでください」
「別にそんな変な気ぃ遣って貰わんでもいいぞ」
「や、無理言って引っ張り出したの俺ですから」
宗一の手から空いた煙草の箱をぱっと取って、山口はさっさとコンビニへ向かってしまった。少しの逡巡のあと、宗一は意外にも森永の側へ寄ってきた。
嘘、と思わず言いそうになるのを我慢する。線香花火を手にとってライターでそっと火をつける宗一を思わず凝視していると、ぱちぱちと爆ぜる火種の向こうで宗一が文句あるか、とでも言いたげに睨んでくる。慌てて森永は自分も線香花火を1本持った。無言で宗一が火を起こす。先がぼうっと一度燃えてからじわりと熱の灯る様は、それまでの花火とはまったく違う風情だ。
少し離れた場所にあるコンビ二へ行って帰るころには、頼りない線香花火は終わってしまうかも知れないと思う。
山口は故意に線香花火だけを後に残していたようだ。このタイミングで場を離れるということは、全部終わらせてしまってもきっと文句はないのだろう。
「……怒ってないんですか?」
「は?」
「いや、付き合ってもらえるとは思わなくて」
「…………おまえ、花火見たかったんだろ」
「へ?」