愛猫
食満家の飼い猫であるもんじはとても幸せだった。
少しずつ暖かくなりつつある初春の宵、夕食も風呂も済ませてリビングで寛ぐ留三郎の膝の上でもんじは丸くなっていた。テレビを眺めながら何の気もなしに撫でてくる留三郎の手が心地良い。このところ留三郎はずっと忙しそうにしていて碌に構ってくれなかったから、久し振りのゆったりとした時間がもんじは素直に嬉しかった。
確か3年ほど前にも同じことがあった。前年の秋のはじめ頃から急にせかせかしはじめた留三郎が冬の間中もんじの世話を家族に放り投げたあげく、春になった途端逆にもんじのほうがうんざりするほど構ってきたのだ。まだ完全に春にはなっていないが、前回より放置期間が長かったぶん早めに相手する気になったのだろうか。細かいことは判らないが現状はもんじにとって望ましいから問題はない。
ふと、どっと明るい声がリビングに沸いた。見ればテレビではたくさんの人々が楽しそうに談笑しているところだった。けれど留三郎はうんとも反応しなかったので然程面白い話題ではなかったのかもしれない。もんじは猫であるから人の言葉などほとんど理解できず、本当のところは定かではない訳だが。もんじに解るのは人々が彼の名を呼びかける声音の温度、ただそれだけである。
もしかしたら、もんじがその気を出せばもう少し人の言葉を理解し応える事も出来たのやもしれない。その可能性がもんじの内を巡る。思い浮かぶのはギリリと眦を吊り上げ罵詈雑言を吐く留三郎と、その言葉ひとつひとつにざわつく心情である。鮮やかに浮かびあがるそれらは、けれどももんじ自身の記憶とは言い難い。証拠に、脳内の留三郎はいつだって向かい合った相手を「文次郎」と呼びつけた。
もんじは、文次郎という人間の男がどのように生きどうやって死んだのかをすべて知っていた。誰かから聞いたわけではない、先にも言ったようにもんじは人語など解らない。ただ、その男の生き様はもんじの頭の中にしかと存在していた。
忍者というものに焦がれ脇目も振らずに行き急いだ男は、誰にも知られず独りぼっちで死んでいった。その死は忍者として恥じるところのない立派なもので文次郎は自らの末期になんら悔いなどなかったが、心の片隅でちらりと、ほんの少しだけ淋しいと思った。死に逝く文次郎の脳裏に浮かんだのは遠い過去に置いてきた朋友達の姿であった。
だから、留三郎に拾われたことはもんじにとって運命的な出会いだった。文次郎という男が最後に恋しがった朋友によく似た少年が、自分を抱きしめ甲斐甲斐しく世話を焼いてくれることで、もんじの内に潜む文次郎の淋しさが少しでも緩和する気がした。
時を経るにつれ文次郎ともんじの心の境は次第に曖昧になり、感情を共有しはじめ。胸に宿る淋しさや幸福感がどちらのものかもはや明確には判らなくなったが、現状それは何の問題もなかった。いつだってもんじの傍には留三郎が居てくれたからだ。留三郎だけでなく彼の家族、それに朋友に似ているもう一人の少年・伊作だって傍にいて、もんじは独りぼっちではないことの幸せを存分に味わっている。
そういえば留三郎の慌しさに一区切りついたのは、ちょうど伊作が訪ねてきたあたりだったか。あの時は結局部屋に入れてもらえなかったけれど、いったい二人で何の話をしていたのだろう。ふと浮かんできた疑問をもんじは考えようとする。けれど撫でる手にリラックスした頭はぼんやりとしてうまく回らなかった。最近はなんだかやたらに眠い。
「もんじろう、」
不意に留三郎が淋しげに呟く。テレビの音に紛れかねないほど小さな声だったが、もんじは決して聞き逃さなかった。にゃあ。伝わらないことは百も承知だったが返事を返さないという選択肢はもんじにはない。
なんだ、なにか言いたいことがあるのか。今だったらなんだって聞いてやるぞ。
そうして見上げた留三郎は今にも何か溢れんばかりの熱い光を目に宿していて、けれどきゅうっと口角を引き締め決して何も語ろうとはしない。この十年間幾度となく見たことのある表情にもんじはしょうがない奴だ、と留三郎の腕を尻尾でぱたりぱたりと軽く叩いてやる。
また、言いたくなったらその時に言え。今ならいつまでだってまってやれるから。
もんじは食満家の十年来の飼い猫である。文次郎と違って、留三郎と離れる理由などもんじにはこれっぽちも見当たらなかった。幸福感に満たされながら、もんじは留三郎の膝の上で眠りに落ちる。
たくさんの段ボール箱と共に留三郎が居なくなったのはその二日後のことだった。