夏空
運命だとか、前世とか、そんなものは信じない。
ただ今この目の前にいる、こいつを守りたいと思った。
今日も、明日も、明後日も。
百年後だって誓えるほどに。
夏空
薬草を煮詰めた時の独特の匂いが充満する療養所の廊下を、足早に通り過ぎる。なるべく人とすれ違わないように、全神経を集中させている。手に提げた筵からは焼き饅頭のいい匂いが漂っているが、それでも人に見つからない様に人の通らない道を通る。
もうすぐだ。あと少しで着く。
そう思って角を曲がった瞬間、小柄な人間が角の先に立っていた。しかも、見知った顔である。思わず呻き声を上げた。
そいつはしばらくびっくりしたような顔をしてこちらを見つめている。
「林冲、何してるんだ?見舞いか?」
「散歩だ」
我ながら苦しい言い訳だと思った。
何故、寄りに寄ってこいつに鉢合わせするんだ。
その男は俺の躰を上から下までじっくりと眺め回したあと、はたと思いついたように鼠顔をきゅっと寄せて笑った。
「ああ、奴さんの見舞いか」
「違う」
「はいはい、じゃあ俺は先生の手伝いがあるから退散するよ」
「おい待て」
「逢引くらい二人っきりでやりやがれ、ばかやろう」
明らかにからかった口調だ。
白勝が去ったあと、林冲は途端に不安になった。怪我人を見舞うことは当然のような気がしていたが、考えてみれば今まで見舞いになど一度も行ったことがない。更に、見舞う相手はあの嫌味ったらしい男だ。一般的な見舞いのやりとりなどは通用しないだろう。なら、白勝に隣についていてもらった方が良かったのではないか。
暫く立ち尽くしたままあれこれと逡巡する。段々と、療養所の廊下に焼き饅頭のいい匂いが立ち込めてきた。これは流石にまずい。逃げ込むように病室の扉に手を掛け、躊躇い、足で蹴破るようにして開けた。
勢いよく開いた扉が、壁に跳ね返ってまた閉まる。決まりが悪い。今度は手で扉を開ける。
「おい、役立たず。見舞いに来てやったぞ、起きやがれ」
勢いよく啖呵を切ったはいいが次の句を考えていなかった。いや、扉を開ければうんざりしたような顔か、さっきの失敗に対する呆れたような侮蔑のような顔が向けられると思っていた。
しかし、部屋に入ると中には誰もいなかった。部屋番号をみると、目的の部屋の一つ隣だった。
恥ずかしい。
顔から火が出そうな思いに駆られて、顔を覆ってしゃがみ込む。追い討ちのようにゆっくり閉まっていた扉で頭を打った。なんと間抜けな姿であろうか。いっそのこと死んでしまいたい。
さっきの啖呵も、薄っぺらい壁を隔てただけの隣の部屋には聞こえていることだろう。絶望的だ。
しかし、ここまで来て引き下がることは出来ない。部屋を出て、左右を確認する。幸運なことに、人影は見当たらない。隣の部屋番号を確認する。間違いなく、目的の部屋だ。
「笑いたければ笑えよ」
半ばやけになって、扉を開け放つ。いたのは、毛布の塊とそこから生え天井から吊るされている一本の細い脚だけだった。
なんだこれは。
いや、異様なまでに白く脛毛の一本も見えない細い脚という特徴からも、その脚が間違いなく見舞う予定であったそいつのものには違いはないのだが、それにしても、なんだこれは。顔も見せず、言外に俺を馬鹿にしているのか。
毛布の起伏や大きさから、あれは頭まですっぽりと毛布に包まっている。しかも、窓の鎧戸を開けたまま。今は夏の盛りだ。あんな風に日に焼かれながら毛布に包まっていたら、中で蒸し焼きにされるだろう。なんだ、新手の訓練か。それともあの下で既に死んでいるのか。
困惑のあまり毛布の塊を見つめていると、塊がもぞ、と動いた。
「林冲か」
静かな、というより弱々しい声で毛布が話しかけてきた。
「公孫勝、おまえ、何してる」
「窓を閉めてくれ。眩しくて暑くて敵わん」
「毛布を取ったらどうだ」
「窓を閉めたらな」
毛布の下から白く細い手がのそのそと這い出て来た。近付くと、その人差し指が窓をゆらゆらと指す。手だけなのに、偉そうだ。むっとして、毛布を捲ってやった。
毛布の下から、不機嫌そうな顔が現れた。眩しそうに腕で目元を覆っている。
「眩しい」
溜息混じりに公孫勝が呻く。肌が少し紅いのは、毛布の中で蒸されたせいだろう。首筋や額に浮いた汗の珠が、夏の強い日差しを受けて光っている。
「窓を閉めろと言っている」
「何故お前の言うことを聞かねばならん」
「どちらが役立たずだか」
無表情のまま面倒臭そうに言われた。
「お前は笑いたければ笑えと言ったが、笑って欲しければ言うことを聞け」
やはり、聞かれていた。しかも笑われればその時悔しいだけで済むところを、笑いもせず侮蔑している。どれだけ質が悪いんだ。
寝台に寝そべったままの公孫勝を爪先で小突く。
「どけ、邪魔だ。せめて起きろ」
「断る。努力しろ」
「くそっ」
公孫勝を跨いで鎧戸に手を伸ばす。やや風通しが悪くなったが、直接日に焼かれることがなくなっただけ涼しくなった。
「これでいいか?」
「躰を拭きたい。そっちの桶の中に布が入ってるから、取ってくれ」
「どれだけ」
我儘なんだ、と言おうとして、はたと思い留まった。
「取って、くれ?」
「頼む」
珍しく、公孫勝の口調が弱い。思えば、いつもの軽口も余裕ぶった笑みもない。てっきり新しい侮辱かと思っていたが、単にその余裕がないだけでは無いのか。
「お前、大丈夫か」
「いいから。桶、水、布」
犬を追い払うように、手がふらふらと揺れた。その手を避けて、目元を覆う腕を掴んだ。熱い。公孫勝は柳眉を寄せて、目を瞑っている。
「熱があるならそう言え」
普通の人間なら微熱程度だが、こいつの平熱から考えるととんでもない高熱だ。弱るのも、仕方ない。
水に浸した布を軽く絞って公孫勝の額に載せると、公孫勝の眉間に寄っていた皺がふっと浅くなった。浅い息を繰り返していた半開きの唇から、安堵したような溜息が漏れる。雫がこめかみを伝うのを、指で掬った。公孫勝が薄く目を開いて、見つめてきた。
「食欲はあるか?」
「ない」
「まあ、だろうな」
「躰を拭きたい、と言ったはずだが」
「優先順位の問題だ」
「それは私が決めることだ」
「そうもいかないだろ」
公孫勝の頬を掌で包むと、公孫勝が眉間に再び深い皺を刻んだ。
「痛い」
「そうか?」
見ると、掌はまめやささくれなどで覆われていた。槍や馬術の調練の積み重ねで出来たものだ。しかし、今まで痛がられたことは無かったはずだ。恐らく病気で、全身の肌が敏感になっているのだろう。
公孫勝の躰の向こう側に手をついて、身を乗り出す。
「止めろ、そんな元気はない」
公孫勝が気怠げに胸板を押し返してくるが、その力も酷く弱々しい。
「いいから大人しくしてろ」
そう言って、唇を啄む。湿った熱い吐息が、唇に触れる。瞼や額、頬に口付けると、公孫勝は身を捩った。首筋に顔を近付けると、汗の匂いが微かにした。まだ時間が経っていないのか、刺激臭はしない。珍しい、と思った。公孫勝の首筋に浮いた汗の珠を舐め取ると、少し塩っぽい味がする。公孫勝は身を捩って嫌がったが、片足を吊られたままではまともな抵抗にならない。
作品名:夏空 作家名:龍吉@プロフご一読下さい