夏空
直衣を割り開くと、胸筋の間にも汗の珠が浮かんでいた。吸い跡を付けながら、汗の珠を啄んでいく。
「っ、はぁ」
苦しそうな声で公孫勝が喘ぐ。顔を覗き込もうとすると、頭を抑え込まれて白く薄い胸板に顔を押さえつけられた。唇のすぐ側で、胸が早鐘を打っている。押さえつけられた胸板が、荒い呼吸で上下しているのがはっきりと分かった。
「もっとやってやろうか?」
「意趣返しのつもりか?」
この疑り深い男は、申し出を仕返しと受け取ったらしい。自分は病気のこいつを気遣ったつもりだったのだが。
「病気ともなると、お前も随分と気弱になるんだな」
触れたいのをぐっと堪えて、身を起こす。いま触れても、公孫勝を苦しませるだけだろう。
公孫勝は目を鎧戸の方に向け、深い溜息を吐いた。
「気弱ついでに言わせてもらうが、野営ではつまらない話を聞かせて悪かったな」
「俺は、そうは思わないがな」
何故こいつを慰めるようなことを、という気持ちと、病人に辛く当たることに対しての良心の呵責から、上手い返事が出来ない。何とも、今日は調子が悪い日だ。
「どうしたんだ、林冲。今日はやけに大人しい上に、私の肩を持つな」
「病人相手だからな。手心を加えてやっているんだ」
言うと、公孫勝が低く笑った。
「それは、ありがたいな。手心にもう一つ、弱音を聞いてもらおうか」
公孫勝は鎧戸の方を向いたままだ。表情は上手く読み取れない。細い輪郭線が、鎧戸の隙間から漏れる光に照らされている。
「いいだろう」
公孫勝は鎧戸に向けていた目を静かに閉じた。
「お前は意外だと思うかもしれないが、私は暗闇が恐ろしい」
何となく、納得してしまった。それは、意外でもなんでもなくただ感じていたことだった。
公孫勝の過去を聞いたからかもしれない。しかし、それだけではない確信に近い思いを抱いていたことは確かだ。
「暗闇も、死も、孤独も、私には堪え難い。だが、私は致死軍以外では生きられないと思う」
「何となく、分かる気がする。まず、死を怖れない者は致死軍なんて名前を付けない」
「そう思うか」
「多くの者は致死軍の意味を死を致(まね)く軍、と読んでいる。だが、俺はこの名前はそのままだと思った」
公孫勝は静かに、琥珀色の瞳をじっと向けて来ている。何一つ感情を浮かべない瞳だ。
「致死軍とは、死に致(いた)る軍であり、死を致(きわ)めた軍のことだろう」
「死を致める、か。大逸れたことだと思うか?」
「そう考えれば、お前が人の死を耐えられない、と言うのも納得できる」
致める、というのは、凌駕することではない。ただそこに行き着くだけだ。
死に致る最果てに立つ軍。
つまり、死ぬのは自分達までという決意。
そして、死に致る軍。
決して生き残りはしない軍。
「お前は、俺に言ったな。誰にも頼らず、頼られる軍でありたいのだ、と。それは、驕りでも傲慢でもなく、お前の優しさなんだと、今なら分かる」
「そんなもの、分からなくて良い」
「それでもお前は、この生き方しか出来なかったのか」
「出来なかった」
公孫勝の指先に触れる。熱い。
「誰かと共には生きられないんだ。いつか必ず、孤独が訪れるから」
公孫勝が指を絡めてくる。
そこに強い力はなく、言葉にならない公孫勝の声が込められていた。
お前と共に同じ道を生きることも出来ない、という声が。
「なら、賭けようか」
鎧戸を勢いよく開け放つ。強烈な日差しが、寝台の上の公孫勝を照らし出した。公孫勝が目を手で覆う。公孫勝を跨いで、窓枠に腰掛けた。
「目を開け、公孫勝」
公孫勝が眩しそうに、ほとんど開かない目でこちらをなんとか見ようとしている。
「俺はお前を決して、死なせはしない。戦いの後、お前が生き延びたなら、その時は俺と共に生きてほしい」
公孫勝が、呆気に取られたように目を見開く。琥珀色の瞳に映る、自分の逆光の影と、その奥に広がる真っ青に突き抜ける夏空。
綺麗だ、と思った。
「考慮には入れて置いてやる」
そう素っ気なく言った公孫勝は、泣きそうだ。
こいつにはきっと満面の笑みが似合うだろう。いつか、こいつを心から笑わせてみせる。
夏はまさに盛りを迎えていた。
。
自分はここで死ぬのだろう。
それでいい。むしろ、今日までよく生きたと思う。
段々と、視界が白くなってきた。やはり、白いのだ。
あの気怠い世界の向こう側へ。
ふと、心に引っかかるものがある。
「何だ?」
真っ白だ。白い。あれは何だ。
「雲?」
ああ、夏の入道雲か。
随分と、小さくなった。
夏の、空。
見納めだろう。
「白い」
そう、白い、顔。
「ああ、お前か」
最後に会いたかったな、なんて。
都合が良すぎる。
まあ、いいだろう。
あの、綺麗事のない約束が道しるべとなるだろう。
百年後でも、千年後でも。
何度でもお前に会えるから。
だから、それまでは。
「おやすみ、また会おう」
作品名:夏空 作家名:龍吉@プロフご一読下さい