お菓子みたいに甘い
スベテノハジマリ
何の脈絡もなく現れた猫は、玄関先でいかにも待ちくたびれたように大きく伸びをした。
「開けるのが遅いよ、女王。」
にんまりと、お決まりの笑顔を浮かべて。女王も気にしていなかったからこの城ではだれもこの異常さに気づくものは居ないのだけれど、目の前には胴体がごろごろと転がっている。
「この城は、猫は立ち入り禁止なの。」
鼻を鳴らすように女王が言ったときにはもう、チャシャ猫はエントランスの階段を上り始めている。猫が、するりと脇を通り過ぎていくように。
「……嫌な猫。」
追いかけてなどやるものか、と、女王はゆっくりと踵を返す。
まずいお茶を淹れた給仕は昨日首をはねたから、しかたなく女王は自分でお茶を淹れる。後悔はしていない。あの給仕の淹れたお茶をもう飲まなくていいし、代わりに給仕は何も言わない、まずいお茶も淹れないかわいらしい姿でポットの隣に並んでいる。
「相変わらず最悪の趣味だね。話さない首なんて。」
「首になってもうるさい猫も、せっかく静かになったと思ってもすぐうるさい首が生えてくる猫も大嫌い。」
「君の好きな首が何回も生えてくるんだからいいと思うよ。」
「あなたの首は嫌い。」
猫舌の猫は、女王がせっかく出したお茶をさっさと脇に寄せる。冷たくなって、まずくなったお茶を飲むなんて、と女王は憤慨する。
「今日はなんで来たの?うるさいだけなのに。」
「……嫌な予感がしたんだ。」
窓の外をちらりと見た猫の顔は見えなかった。笑っていないように見えた。
「ああ、僕らのアリスが呼んでいる。」
小さく、つぶやいて。
「何を……」
文句を言おうとして、背中に寒気を感じた。
「……っ」
シロウサギが、分かる。きっと、国中の誰もが気づいただろう。
「ああ、ウサギが…」
「まさか、シロウサギが…」
怖い、恐怖を感じたのは生まれて2回目だ。最初はアリスが扉を閉じた日。寂しくて寂しくて、初めて刈ったのは婆やの首だった。
「歪んでしまったね。」
にんまりと、チェシャ猫が笑いながらこちらを見る。チェシャ猫はあの日以来、笑いをとぎらせることはない。元々小さなアリスの前では、いつもニコニコしてはいたけれど。アンパンたちが抗争を始めたのも、この猫の飼い主の晩餐が終わらなくなったのも、皆あの日だ。
―――なら今日からは、何が起こるのだろう。
「アリスが僕らを呼んでいる。僕が行かないと…」
「……なぜ!?猫はトカゲの次にアリスから遠いのよ、近付いていいわけがないでしょう!?」
「僕は導く者だから……アリスが壊れてしまう。」
窓から外を見上げる。酷い空模様だ。赤い、血の色だ。アリスが壊れてしまう。
「……わたくし…そんな……」
カタカタと、奥歯が鳴る。ああ、怖い。怖い。
「アリスをここに連れてきて!ここに居れば辛い思いなんてさせない!」
「首にするのかい?」
チェシャ猫はにんまりと笑いながら、悲しそうな顔をした。
「そのほうが……幸せだわ。もう、泣かないですむもの。」
「…………」
チェシャ猫が、小さく首を横に振った。
「アリスのところへ行って、あなたも歪んでしまうのね。」
「それが、アリスの幸せになるならね。」
飄々と言ったチェシャ猫が憎らしかった。おいていかれたような気がした。
「……アリスは必ずここに来るわ。わたくしの考えも分かってくれる。 ……あなたは、入らせない。」
猫のあとを追いかけるつもりは、女王にはなかった。