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Gardenia

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「あ・・・この香り・・・・」
 ある時、聖域近くにある街まで出かける機会があった。大した用ではなかったので小一時間ほどで用事は終え、聖域とは違う空気を醸し出す久しぶりの街並みにぶらりと足をのばしていた。ガラスの中にある目新しいものに目を奪われていた時、大事そうに花を抱えた女性が通り過ぎて行った。その時、ふわりと漂い鼻腔を掠めた香りが煩いほどに記憶の扉を叩いた。

 覚えのある香り。

 だが、その正体が掴めず、また、いつその匂いを嗅いだのか・・・記憶がおぼろげだった。ふらりとその香りに釣られたように女性のあとを追う。すると一軒の花屋が現われ、そこの奥へと女性は消えていった。
 しばし様子を窺うと花を手にしていた女性が再び姿を見せた。どうやらこの店の店員のようで、いそいそと色とりどりの花を抜き取り何かをしているようだった。ほんの少し迷ったのち、店の前に行くとその女性に声を掛けた。むろん目当ては女性ではなく、花そのものであったが。あの花を購入しようと値段を尋ねる。ところがその花は売り物ではなかったらしい。そこをなんとか・・と頼み込んで、ようやく手にすることができた。
 ついでにその花の名も教えてもらい、どこか夢見心地ともいえるような状態で自宮へと辿りついた。
「ガーデニア・・・・ね。ふぅん・・・」
 白い花弁は楚々としている風情であるのに、その花から香るのは甘ったるく芳醇で、男を惑わす妖艶な女のようでもあり、ひどく官能を呼び覚ますものだった。香りを胸いっぱいに吸い込めば、くらくらと眩暈のような感覚を覚え、雲の上を歩くような浮遊感と共に再び動悸が激しくなっていく。
 このような花は聖域では咲いているところを見た覚えがないというのに、この胸騒ぎはどこからくるのか。不安や焦燥といった不快なものではない・・・それは高揚感というべきもの。いや、そんな上品な言葉ではなく、もっとセクシャルな・・・そう『絶頂』だ。
「花に惑わされているのか・・・この俺が?」
 つい可笑しくなって笑い声を立てた。アフロディーテではあるまいに、と。そんな思考に耽っていると、不意にパチンと記憶の泡が弾けた。
「そうか・・・この香りは・・・」
 あの男が身に纏っていたのだということをようやく思い出したのだ。楚々とした白い花弁のような花の顔でありながら、清楚さや慈悲とはまったく無縁ともいうべき熾烈なまでに容赦のない乙女座黄金聖闘士・・・シャカを。
「ゾッとしないな」
 くしゃくしゃと頭を掻き毟り、はぁと溜息をついた。
「何がゾッとしないというのかね」
「・・・・・勝手に入ってきて、いきなり何なんだよ?・・・おまえは」
 内心の動揺を押し隠しながら極めて平静を装うが、わずかに声は上擦っていたかもしれない。シャカは何を考えているのか相変わらずよくわからない顔で当然のように俺の部屋の扉の前に立っていた。気配をまったく感じなかったのは呆けていたせいなのか、シャカがそういうことに長けていたのか・・・たぶん両方なのだろう。
「この花の香りに惑わされた・・・のかもしれない」
 にやり、という言葉がぴったり当て嵌まるような笑みを浮かべるシャカに眉を顰めた。
「・・・立ち聞きとは。堕ちたものだな。黄金聖闘士ともあろうものが」
 精一杯の皮肉を込めて睨みつけるが、そよと吹く風のように物怖じもせず、シャカは扉から離れると中腰になりながら俺の手の中にあるガーデニアの花を覗き込んだ。そして、ガーデニアの花弁のように白い指先をその花へと伸ばした。
「確かに・・・ミロ、君の言うように心を惑わすような妖しげな匂いを放つ。雨の中にあってもその芳香は失われることのないまま。狂い咲きながら有無を言わせぬ強烈な香りで嗅覚を惹きつけ、己が存在を知らしめる。この可憐な花の正体はとても強かで、官能へと誘う淫らな花・・・・」
 どこか言葉の端々に嫌悪感にも似た刺々しさをシャカは含ませていた。まるでその花の香りが似合うと口走ったこの俺に対する抗議のようにも感じられた。
「なら、なぜそんな花の香りをおまえは纏っていたんだ?」
「さて。偶々、私が赴いた場所に群生していただけであろう。ただの移り香に過ぎぬ。そして今は———」
 言葉を切ったシャカは呆としたように花弁を撫でていた指先を止め、その指を眺めた。そう、眺めていたのだ。うっすらと瞳を開けて。そしてその瞳が俺のほうに差し向けられた。夕闇の中で映える白皙の顔が濃厚な香りと共に迫る。
 あの時のように・・・・酩酊のような眩暈のような感覚に侵食されていく。ざわざわと耳障りな血流の音が鼓膜を刺激した。
「今は君がこの香りを・・・・纏うのか」
「シャカ?」
 まるで酔い痴れているといった様にも見えるシャカに困惑しながらも、引き摺られていきそうになる。
「君は知っているかね・・・この花は神々に捧げられるものでもあり、生身の女の代わりに捧げられる供物だということを」
 供物。それを口にしたシャカに言い知れぬ恐怖を感じた。まるで、この花に嫉妬しているかのようにも見える、間近にあったシャカの目の鋭さに怯えている。
「それは・・・知らなかった」
 口の中は渇きを覚え、喉の奥を引き攣らせながらようやく答えた。まるで自分がシャカに捧げられた贄の様な気分だった。
「知らぬほうが時に良いこともあるのだろう。尤も君には神々との交わりから得られる恍惚感よりも、肉体的な交わりから得られる快楽のほうが望ましいのであろうな」
 神に近き男と綽名されるシャカ。シャカのいう意味はシャカとの交わりを指しているのか、それともシャカ自身の神々との交わりを指すのか・・・どちらにせよ、ひどく危険なもののように感じた。
「普通・・・誰だってそうだろう?神々との交わりなんて・・・おまえぐらいしか、しない・・・というより、おまえしかできないんじゃないかと思う」
「確かに・・・・愚問だった」
 ふっと鋭い目が和らぎを見せ、シャカは瞳の色を隠すと俺から離れた。ほっと胸を撫で下ろし、緊張感から解放されると、ある事実に気付く。確かにさっきまでシャカの瞳を見ていたはずなのに、瞳の色がよくわからなかった。青だったような気がしたが、まるで違う色のようにも思えた。すっぽりと記憶から抜け落ちているのだ。まるで一種の催眠状態にでも陥ったかのように。
「おまえ・・・俺に何かしたか?」
「君に?私が?何をしたというのかね」
「いや・・・ま、大したことではないし、別に構わないが・・・腑に落ちないだけ」
「惑わされたのであろう、花に」
 そういってシャカは何事もなかったかのように扉を開けて出て行った。本当に花の香りに惑わされてここに訪れただけだったのだろうか。シャカの真意はわからぬまま。
「花に・・・ね。そういうことにしておこうか」
 手の中にあるガーデニアに視線を落とす。
 楚々とした昼間の淑女が夕闇とともに艶めいた妖女へと変貌を遂げるような不思議な花だと、しみじみと思いながら。




作品名:Gardenia 作家名:千珠