Gardenia
どれだけの時間、微睡んでいたのかは定かではなかったが。
何かの刺激で眠りの底から這い上がる。何かわからないが、くすぐったいような心地よいような刺激。いまだ眠りつく肌の感覚は、鈍いながらもその刺激を伝えていた。
少しずつ、眠りから目覚め始めていく。そして、おのれが眠りについていたということを認識して、その与えられる刺激が夢なのではなく、確かな現実なのだとようやく頭の中で理解できたとき、目を開けた。
「!?」
驚きのあまり、跳ね除けようとした手は簡単に捕まれた。まだ寝ぼけた身体はうまく力を出せないでいた。
「ようやく、目が覚めたかね。存外、君は鈍いな」
「な・・・なんだ・・・何しに来た?というより、妙な起こし方をするな!」
「ではどのような起こし方をすればよかったかね?いきなり拳を見舞ったほうがよかったか?」
俺の手を掴んだまま、人の寝込みを襲った張本人のシャカは悪びれもせず、さらりと言ってのけた。
「普通に起こせばすむことだろう?」
「普通では起きぬとアイオリアが言っていた。耳元で囁くと一番効果的だとは言っていたが、その場合には“あること”に用心しろとな。さすがにそれは私も抵抗を感じたので、こうなったわけだ」
「あいつ・・・!」
約束はしなかったが、結果的に闘技場で待ちぼうけを喰らったようともいえるアイオリアの嫌がらせなのだと気付き、歯噛みする。それはさておくとしても、アイオリアの嫌がらせの片棒を担ぐためだけに、この男がわざわざ、ここまで足を運ぶことなどないはず。
「で?何か俺に用なのだろう?」
「憂さ晴らしに来た」
「憂さ晴らし・・・って、何かあったのか、教皇と」
教皇と謁見していたシャカの雲行きが怪しかったとアイオリアが確かそんなことを言っていたはずだと思い出す。
「———を掴み損なった」
ぼそりと小さく呟いたシャカは珍しく不快さを表情に表していた。何を掴み損なったというのだろう。尋ねようとした時、予測していなかったシャカの突然の行動に目を見開く。
「———ええと。シャカ、きみは一体、俺に何をなさろうとしているのでしょうか?」
思わず敬語で訊いてしまう。なぜなら、シャカは自分の上に馬乗りなのである。きっちりと、かっちりと逃げられないよう、綺麗に固められていた。
「憂さ晴らし、だと先刻言ったではないか?」
つまり。
この状況で考えられることといえば、シャカは憂さを晴らすために一方的に俺を殴ろうとしているのだろうか?・・・・冗談じゃない。八つ当たりならそこらへんにいる雑兵にでもすればいいものを。
「はい、ではどうぞ・・・と俺が言うとでも思っているのか?」
面白そうに上からシャカが眺めている。寝起きとはいえ、迂闊にも油断した結果の屈辱極まりないこの体勢とシャカの余裕の表情に苛立ちが募る。
「そうだな。だが、これが私ではなく、君が望む妖艶な美女ならばあるいはそうではないのかね?」
「・・・・まぁ、確かに」
それならば大いに臨むところだ。が、現実は妖艶な美女とは程遠い。
「否定しないところが君らしい」
くすくすと愉快そうに笑うシャカを下から睨みつける。相手をするだけ無駄な労力を費やすことになるのだろう。
「とにかく、俺の上からどけって!」
ちょっとずつ身体をずらしたりしながら、きっちりと生け捕られている状態から抜け出そうともがく。
「そうか・・・この状態が気に入らないと。では、これなら?」
「わっ!」
いきなり首根っこを捕まれ、ぐるりと身体が遠心力を伴って回転した。今度はシャカの身体が下へと入れ替わった。つまり、俺がシャカを見下ろす形になったわけだ。それでも首根っこはしっかりと掴まれていたため、なんら変わらないような気がした。
「これなら、君は安心か?」
「ええっと・・・・」
思わず答えに窮してしまう。跳ね除けようとしてシャカの肩を掴んだ姿勢。今の状態ではまるで・・・・シャカを組み敷いているかのような図。考えようによっては先程より、なお悪い。かといって、シャカの肩を掴む腕の力を抜こうにも、首根っこを引っ掴んだままのシャカは力を決して緩めようとはしないでいるものだから、また先程のように馬乗り状態になられたくはないこともあって、膠着状態に陥っている。
「心の音がここまで届いてくるが?」
見ようによっては俺に組み敷かれたような状態にもかかわらず、あくまでも余裕綽々なシャカに苦虫を潰したような顔になる。なんだってこんな目に遭わなければならないのか。己の身の不幸を嘆かずにはいられない。
「うるさい。何が憂さ晴らしだ。人の迷惑顧みずに。他ですればいいものを」
「君が悪いのだよ。今になってもまだ未練たらしく、甘ったるい香りを漂わせている君が」
「え・・・?」
「言った筈だ、あの花は神への供物だと。早々に始末すればよかったものを君は———」
うっすらと閉じていたシャカの瞼が開き始める。まるで開花するかのようにゆっくりと。
「何を屁理屈言って・・・」
シャカの目を見てはいけないと頭のどこかで警鐘がなっている。それでも目を逸らすことなどできなかった。花開いていく瞳と同時に嗅覚を刺激したのは狂うほど濃厚なガーデニアそのものの香りだった。
「花が・・・・惑わすというのに」
首根っこを掴んでいたはずのシャカの指は迷うこともなく頬へと伸ばされ、耳朶をなぞるように髪へと差し入れられる。その所作に同調するかのように部屋いっぱいに満ちていく甘く艶めいた香り。肌を伝う指のなまめいた感触にぞくりと肌が粟立ち、より一層の緊張を走らせながら色めき立つ衝動を抑えようとしたのだが。
「———強かで、官能へと誘う淫らな花はおまえか・・・それとも・・・・この私なのか?」
強い磁力に引かれるように気づけばシャカが身体を引き寄せていた。思考停止の寸前に追い込んでいこうとする耳朶にかかる吐息と謎かけの言葉。
「俺は・・・ただの移り香でしかすぎない・・・・シャカ」
そう、ただの移り香。
香りのもとは・・・・神をも捕え、喰らうであろう、シャカ。
部屋の片隅から色褪せた花弁が静かに散り始めた音が聞こえるような気がした。
―――Gardenia。
神々に捧げられる供物の花。
その香りに惑わされた神々こそ、
花に捧げられた・・・真の贄。