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【NO.6】 おかえりなさい。ネズミ 【微腐】

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 ザッ、とブーツの踵が土を踏む音がして、それはネズミが遠くへ行ってしまう合図だと思ったら、もう駄目だった。
 ガクンと首を落とした紫苑は、震える唇を叱咤してやっとの思いで呼気を掻き集め、吐息を紡ぎ出す。
「……ネズミ」
「?」
 小さな小さな囁きは空気を振動させて、目的の人物の耳まで届いたようだった。
 ふっと空気の流れが止まり、数メートル先に彼の止まる気配を感じた。
 すとんと落ちた黒髪の間から、射るような視線が降り注がれる。俯いた状態でも、頭のてっぺんにネズミの怪訝そうな思惟を感じ取る事が出来た。
 残酷だ、と思う。
 君がどう思っているのかは知らないけれど、君の想像よりもずっと、ぼくは強くなんて無いんだ。
 完全に振り返る事無く、肩越しにチラリと当てられただけの視線に、ジワリと眦から熱い体液が溢れだした。
「……ネズミ、待ってくれ。やっぱりぼくは、君に行って欲しくない」
「は?」
 素っ頓狂な声が聞こえて、前に向いていた身体がくるりと此方に向き直る。
 今更何を言い出すのだと呆れたような顔をして振り返ったのだろう彼は、ポタポタと滴下している自分の涙を見付けて、舌の先に乗り掛かっていた罵倒の台詞をグッと飲み込んだらしかった。
 はぁ、と短い嘆息が落とされる。彼を困らせたくは無かったけれど、涙の数滴でネズミを引き留める事が出来るのならば、幾らだって分泌してやれる自信があった。女々しい自分を情けないとも思わない。卑怯だとも思わない。たった一つの目的を完遂する為ならば手段を選ばない遣り方は、目の前の当人から教えて貰った事だ。
 尤も、安い涙に決意を揺るがせ、心を絆されるような人物ならば、此処まで彼に惹かれてはいなかったと思う。だからこれは只の時間稼ぎに過ぎなかった。少しでも良いから彼と向かい合っている時間を引き伸ばしたかった。成功率の極端に低い一か八かの賭けだったけれど、狭くなった視界の中に、見慣れたカーキ色のブーツがつい今しがた進んだばかりの道をザクザクと逆戻りして来るのを見止めた途端、ぶわりと一気に眼前が滲んだ。
「っ……ネズミ、すきだ。すきだ。だいすきだ」
「ああ」
 目の前に立った彼に向かい、血を吐くような告白を絞り出す。
 止まらない。もう、止まれない。
 爪が食い込む位に握り締めた拳を振り上げて、思考する間もなく込み上がってくる言葉をそのままネズミにぶつけた。
「離れたくない。傍にいたい。ずっと一緒にいたい。片時だって君と離れていたくはないのに」
「うん」
「なんでぼくを置いていくんだ。夏になっても隣りにいられるって思ってた。君だって好きなだけ居れば良いって言ってくれたじゃないか。君は嘘吐きだ。ひどい裏切りだ」
「紫苑」
「同じ部屋で過ごして、同じ物を食べて、同じ空気を吸って、同じベッドで眠って、朝起きたらおはようって言って、眠る前にはハムレットに本を読んであげて、君はツキヨに子守歌を歌って、クラバットはぼくの布団に潜り込んで。たった数ヶ月だったけれど、何よりも幸せな日々だった。失くなってしまうだなんて夢にも思っていなかった。君の傍に居られる時間が永遠なんだって信じて疑っていなかったのに」
「しーおーん」
 胸の中に氾濫している気持ちをそのまま言の葉に乗せて喋りまくっていると、らしくない醜態だと訝しがられたのか、ネズミに強く肩を掴まれた。ゆさゆさと揺さぶられるのに苛ついて、無造作に腕を振り払おうとしたら、それよりも早くネズミの手に指先が捕まった。ぐい、と引き寄せられ、あっと思った時には耳元に落ちてきた形の良い唇から、紫苑、と真摯な口調で名を呼ばれる。透明に近い白銀の前髪の隙間から、ネズミの赤い唇が笑みの形に吊り上がるのが見えた。
「本当に、聞き分けの無い子だね。いいから、落ち着きなさい」
「無理。落ち着けない。君がそうやって茶化すなら、ぼくも態度を改めたりはしない」
「落ち着くんだよ。紫苑」
 耳の横に差し入れられた髪が、無造作にくしゃり、と掻き回された。
 挨拶のような軽い抱擁を受けただけで、ネズミの身体はふっと離れていった。
「戻ってきたら、さっきの続きをしてやる」
「……え?」
 悪戯な笑みを浮かべているとは思えない程、声音は艶やかに濡れていた。
 何を言われているのか分からずにポカンと瞠目して見上げていると、端正な顔立ちは更に笑みを深めていった。
 泣きじゃくっている子供をもドキリと鼓動を早めそうな位、ネズミの眸は蠱惑的な魅力に彩られている。それなのに涙に濡れた自分の目元を拭ってくれる指の感触は、ひどく優しかった。自分を労ってくれる慮りの仕草を感じられた。そのギャップに混乱した紫苑は、目の前の冴え渡るような美貌を、無防備な眼差しでジッと見上げる。
 真冬の夜みたいな済んだ冷ややかさを持つ彼は、皮肉を織り交ぜた笑みを宿している瞬間が一番美しかった。
「おれの言っている意味が分かるか?」
 そう囁く彼の口調には、確かな慈しみの心が籠もっていた。
 決して此方には胸の内を見せようとしなかったネズミが、始めて心情を吐露するような告白をしている。最後だからだろうかと、その理由をおぼろげに推当てた。これから知らない世界に旅立つ餞として、慰めの言葉を掛けてくれる。凡そ彼らしくもないそんな同情じみた施しはいらないと新たな絶望を覚えたけれど、さらり、と彼の長い指が髪の毛を梳いていくのに、そうじゃないかも知れない、と気が付いた。
 濃灰色の深い眼差しが、自分を見下ろしている。ネズミの視線は凶器だった。胸の肉を暴いて心の中に直接到達しようとするのだ。眼球を通して胸の中にしんしんと新雪が降り積もっていくような錯覚をおぼえて、ハッと我に返った紫苑は、一瞬にしてカーッと頬を赤らめ、狼狽えた。
「な、何を……っ」
「涙、止まったな」
 クスリ、と思わず見惚れてしまいそうな微笑を披露したネズミは、満足そうに紫苑の髪を撫でる。
 寄生蜂の孵化した影響で白髪化した髪は、彼が唯一美しいと褒めてくれたパーツだった。言葉では語らないけれど、近くに居ると高い頻度で髪に触れてくる態度が、気に入っているらしいと知らせてくれる。それをするりと歌うような軽やかさで梳いたネズミは、良い子だ、と言って静かに頷いた。
 ふわり、と肩に纏った彼の超繊維布が、鳥の翼のように大きく広がる。
 綺麗に微笑んだ眸の儘、彼は今度こそ北ブロックの小高い丘から立ち去ってしまった。
 ゆっくりと、静かに、遠く、小さく、ネズミの背中が消えていく。光の粒子に飲み込まれて、愛しい後姿が見えなくなる。
 ――再会を必ず、紫苑。
 鼓膜に熱く刻まれた吐息だけが、紫苑の脳裏にぐるぐると巡っていた。
 彼はさようならではなく、また会おうと言ってくれた。別れを告げるのでは無く、次にまみえる約束をくれた。
 そうだ。これは、約束なのだ。
 ネズミは別離の餞別として、キスをくれたのでは無い。
 再び相見える為の、約束を残してくれたのだ。
「――――っ」
 それだけでとても救われた気持ちになって、紫苑は堪えていた涙をポタポタと頬に伝わせた。
 ネズミの背中を飲み込んで、尚も全てを包み込もうとする陽射しの眩しさに立ち竦み、紫苑は泣いた。
「……ばか」