そういう望み
*
方角を失わないように気を付けながら、吹雪の中をスペインはうろうろと歩いていた。
(…あんな風に、抱き締められて。食べれる訳ないやん…)
美味そうだと。ロマーノに対して、思ってしまったことが無いとは言えない。それでもスペインの中で、ロマーノを食べるという選択肢はとっくに消えていた。消したつもりだったのだ。今回のことで思い知らされた。
口の中にヤギを…ヤギの肉を含むことなど本当に久し振りで。口の中に飛び込んできたロマーノの指はいとも簡単にスペインから理性を剥ぎ取り、ただのオオカミを剥き出しにした。脅すつもりで口にした「いいのか」の言葉は宣言しているような声音にしかならず、唇が触れたら怖がって思い直すだろうという考えも甘かった。唇で触れた「ヤギ」の皮膚の感触に、ロマーノの身体が震えていたという事実は都合良くスペインの頭から吹き飛んだ。ごまかそうとキスを重ねる度に忍び込んできた味と匂いは、舌の根を痺れさせ、だんだんと判断力を奪っていくようだった。
もしあのままあそこにいたらどうなっていただろうか。スペインは本当にロマーノを食べていたかもしれない。いや、確実に食べていた。だから、スペインはあそこから離れた。
最後にスペインを我に返らせたのは、牙が触れた瞬間にロマーノがスペインを抱き締めた力だった。多分ロマーノ自身も気付いていない行動。途中、本当に自分を止められないのではないかと思った時が、無かった訳ではないけれど。スペインは、止まった。
「あーあ、1本ぐらい草、生えてへんかなあ」
1人で喋り続けながら、スペインはあてもなく歩き回った。空腹なのはスペインも同じで、独り言でも言っていなければ倒れてしまいそうだった。
「あ」
儚い努力が、あっけなく無に帰す。小さな、本当に小さな石に躓いて、スペインはそのまま雪の上に倒れ込んだ。
(あー…からだ、動かへん…)
積もった雪の冷たさすらも、今のスペインには遠かった。
「どうしたら、ええんやろ…」
呟いて、目だけを動かす。草を探して巡らせた視線を山の下の方に向けた途端、スペインはぎょっとして体を起こした。
だんだんこちらに向かってくる光の群れは、見間違えようのない、オオカミの目の光だった。このままでは、確実に鉢合わせする。
ふっとスペインは笑った。
「帰ってきたら、か」
死力を尽くして立ち上がる。一度だけロマーノのいるであろう方向を振り返り、そして、スペインは光に向かって雪の上を駆けた。知らず漏れ出ていた咆哮は遠く山の下のオオカミにも届き、光が一斉にスペインへと向かって来た。それでもスペインは足を止めない。吠えることを止めない。響き渡る足音と咆哮は山を震わせ、積雪を揺らし、やがて白い濁流になった。
*
ロマーノはのろのろと目を開けた。ほら穴の外が白んでいることに気付き、相当眠ってしまったうだと眉をしかめる。近くにスペインの姿は見当たらず、ふらつく足取りでほら穴の外に出た。途端、強い光に目が眩んだ。恐る恐る目を開けていくと、そこにあったのは晴れ渡った空と、緑の森だった。ロマーノは空腹を忘れるほどに驚いた。
自分達はもう山を超えていたのだ。
喜びにスペインを呼ぼうとして、ロマーノはそこにスペインがいないことを思い出した。
(スペイン、早く早く、早く、戻って来いよ)
ロマーノは朝日にきらめく森を見ながら思った。