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愛と友、その関係式 最終話

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愛と友(ゆう)、その関係式
<下>終始

最終章 始まりから終わりまで

 立ち止まっている女は考える。

 はぐらかしたのはちょっとした美奈子の意地だった。
 ”和馬って、呼んだだけ”
 最後まで聞かずに振り向くほうが悪いのだと、美奈子は心の中で毒づく。
 ――本当は……すごく嬉しかった。
 たった一つの言葉(その言葉は人間へ平等に与えられるプレゼントだ)で通じ合える。――魔法のようで何だかとてもロマンチックだ。
 ”どうして俺なんだ?”
 呼ばれると舞い上がるほど嬉しく近くに感じた、なのに――たった一歩がとても遠い。
 しゅんと心が萎んで、怪我をした天童が頭を過ぎった。
 ――天童くんが大変なときに、何を考えているんだろう。
 舞い上がる気持ちは不謹慎なものとして喉の奥へしまいこまれた。
 
◆◇◆◇◆

 言えない男は考えた。
 
 ”何処だ! 美奈子!”
 闇の奥で美奈子の声がして、全身の毛穴が開いて総毛立った。たとえようのない感覚に、ほんの少しの興奮と――激情と、安らぎを。
 どうしてあんな危ないことになったと咎めなかったのは、場にそぐわない感情を抱いてしまったからだ。つけくわえるなら、何処にも怪我をしていない美奈子を知って、全てが解決した気分になった。ようするに、美奈子が無事でいさえすればそれでいいかと思えてしまったのだ。
 美奈子が呼びかけた一言(その言葉は世界で最初に与えられたプレゼントだという)は、鉛にみたいに動かなかった足を動かしたのだ。その単純さを嘲り笑う。
 また、久しぶり交わした会話は呆気なく、想像してたよりは自分に優しかった。
 ――呼んだだけ。
 ドキリと心臓が鳴った。
 気づかないふりをしたのは、胸の内を言い当てられると感じたからである。
 ――そんなの美奈子だって同じじゃねえか。
 ”どうして俺なんだよ”

◆◇◆◇◆

 卒業式当日――。式も終わり、高校最後のSHRに眺めた空はとても青かった。
 美奈子は気づかれないよう、折りたたみ式の携帯を何度も開閉を繰り返す。
 パチリパチリ。
 携帯は鳴らない。天童からも、若王子からも、姫条からも、紺野からも、――鈴鹿からも。誰も誰も。
 あれから――もう二週間経つ。長いように感じるし、短いようにも感じた。どちらでも関係ないと思うのは、どこか上の空だったせいかもしれない。

 SHRが終わると、クラスの代表が氷室先生に大きな花束を渡した。氷室先生は表情筋をピクリとも動かさない。そんな所は入学当時から一つも変わっていない。
 級友たちと”また会おうね”と月並みな言葉を交わして、しばしの別れを惜しんだ。
 不確かな約束でも彼女や彼たちは満足している。実際は本当に会えるかどうかなんて問題ではないのだ。高校時代の終わりを悲しんでいるだけで、実のところ視線は既に未来へ向けられていた。
 ――一人、また一人教室から姿が消えていく。
 パチリパチリ。
 携帯を開閉する。携帯は鳴らない。
 美奈子は意を決して立ち上がると、教室の扉へ向かった。廊下を出る間際、後ろを振り返った。教室は悲しんでいるような喜んでいるような――不思議な表情で美奈子を見ている気がした。
 二度と会うことはないかもしれない。だから、また会おうねなんて言わない。だけど、さよならも言えない。
 いま教室にかける相応しい言葉を持たない。正しい答を誰も持ってはいない。卒業は選択できない別れの一つだ。自らの意思と関係なく舞い落ちるそれは生死のサイクルに似ている。別れなのに美しく感じるのは、きっとそのせい。
 結局はたむけの言葉を一つも投げずに教室を後にした。
 歩く廊下は、生徒の数が疎らだ。それをいいことに美奈子はゆっくりと歩く。
 ”それでは諸君。これが私から諸君へ贈る、最後の言葉です”
 ふと脳裏に響いたのは、卒業式で聞いた理事長の言葉だ。
 ”胸に希望を持て。希望を捨てなければ、諸君は決して負けることが無いのだから”
 廊下を歩き――渡り廊下に体育館。
 ”人生は……時として諸君を打ちのめす。絶望に打ちひしがれ、全てが虚しく思える事もあるだろう”
 音楽室に化学室、被服室、屋上。
 ”私は信じている。諸君が自らの翼で、どんな困難をも乗り越えていくことを”
 生徒玄関へ着くと、校庭を見渡す。
 ”さぁ!今、諸君の目の前に未来は無限に広がっている!”
 誘われるように辿りついたのは、入学式の日にも見上げた教会だった。かこむようにシロツメクサが息づいている。
 ”諸君! はばたけ!”
 長くて短い学園生活が終わる。
 淡い期待は打ち砕かれて、美奈子は空を見上げた。待ち人はこない。携帯は鳴らない。贈る言葉は失われた。
 
◆◇◆◇◆

 ”私は旅立たなければなりません――。でも、どうか悲しまないでください。私の心はあなたのもの。たとえ、世界の果てからでも必ず迎えにまいります”

『絵本。……気になるか?』
 あれは藤井に校舎裏へ呼びだされた日。教会の階段で葉月と交わした会話だ。
 葉月は絵本の所在を知っているのかもしれない。
 美奈子はしばらく考えて首を横へ振った。
『ありがとう。でも、まだ大丈夫だよ』

 ”それから姫は毎日森の教会で王子の無事を祈りました。いつか、王子が迎えに来る日を信じて”
 
◆◇◆◇◆

 教会へ背を向けようとした美奈子の視界に一冊の絵本が映った。それは見覚えのある懐かしい絵本。
「これって」
 美奈子は歩み寄ると、絵本を大事に拾いあげた。
「どうしてこんなところに?」
 長い間、野ざらしにされていたわけではないようだ。むしろ、今まで大事に保管してあったようで表紙には傷や色落ちが一つもない。
 まるで、美奈子を待っていたようにみえた。美奈子は誘いこまれるように表紙をめくる。
 古紙の香りが鼻をくすぐった。東洋離れした絵と見慣れぬ言語で物語は綴られている。ただ、内容は砂が水を吸いこんでいくように滑らかに流れた。
 遠い日の男の子の声が優しく耳元で囁く。
 ”きっと、この教会なんだ――”
「姫が祈りをささげた教会」
 ページの最後にはステンドグラスの光を背に受けて、静かに目を閉じる姫の姿が描かれていた。
 薄く微笑んでいるようにも見えるし、ふりかかった悲しみをたえているようにも見えた。
 姫を包むのは悲しみか、それを超えた愛の喜びか。きっと、姫にしか解らない。
「それから姫は毎日森の教会で王子の無事を祈りました……か」
 娘についた悪い虫を追い払おうとした王様。一目惚れした娘のために命をかける王子。ただ周りに流されるだけの姫。
 遠い日、女というものは待つ生き物だと憧れた。
 ”私は旅立たなければなりません――。でも、どうか悲しまないでください。私の心はあなたのもの。たとえ、世界の果てからでも必ず迎えにまいります”
 そんなものはまやかしだ。離れれば、恋の形がわからなくなる。恋人の何が好きなのか、何を愛していたのか。王子も、姫も、最後は相手の顔さえ思い出せなくなるのではないか。そして、幸せだったという思い出だけ残って、昔話のように語るのだ。”あんな恋もあったと”