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雨に濡れて掠れたラブ・バラッド

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秘密を胸に、あてどもなく街を歩く。何処にも拠り所がなかった。帰る場所を作りたくなかったから
組織を捨ててきた筈なのに、前を見ても後ろを見ても、ぶちまけられた過去という名の宝石が痛々しい
くらい輝いていて、動けなくなった。このまま立ち止まっていたら潜んでいた罠が足を取って、闇に落
としてくれたら楽なのに、と思う。自殺願望に似た考え。そこまで手を伸ばせるほど勇気のある人間に
はなれない。中ぶらりんなくらいじゃないと、息が出来る気もしない。生暖かい泥の中でないと生きて
いけないのだ、きっと。 ぽつぽつとしか降っていなかった雨が急に勢いを増して、あっという間に路面
を湿らせた。水を含んだ路面は暗闇と寄り添うように溶け合う。何もない頭上に雨粒が落ちて、ジャン
の髪を濡らした。シャツも水を吸って、肌に張りついてくる。視界も雨に濡れて、滲んだ。車のライト
が水を沢山含んだ絵の具を紙に落としたかのように光って写る。人のいない路地を通る車の傍を通り抜
けていくと、待っていたとでもいうかのように電話ボックスがあった。動かされるのを止められた人形
のように立ち止まる。どういうつもりで渡したのかよく分からない、ベルナルドの部屋の機械城の歯車
の中の1つとぴったりの鍵という名の、電話番号。何かの時、ってどんな時なんだと聞いてみればよか
ったかもしれない。思い出して、使える状況にはあるけれど、今がその何かの時に当たるのかどうかは
分からない。でも、それでいいやと思った。目の前に電話ボックスがあったからドアを開けた。それで
いい。湿気の篭る狭いガラス箱には、観客のいない古びた小さなステージの上で一人スポットライトを浴びる
バレリーナのように、公衆電話が安っぽい灯りの下にあった。ところどころ塗装が落ちているところか
ら、様々な人が使っているのが容易に分かる。ああ、もう終わりか。ジャンはふっと苦笑いをする。
結局どちらも立ち位置はそのままだった。ベルナルドがこちら側に来るなんて最初から想像出来なかっ
たから、当たり前か、くらいに思えた。余計なところで気をすり減らすなんてくだらないから良かった。
良かったと思えばいいのに、何故完璧に切り捨てられずに振り返りたくなるのだろう。でも、それもこれ
で最後だ。この電話越しの会話が終われば、きっと何もなかったようにできる。




仕事部屋の窓を雨粒が叩いては流れていく。今日は朝からずっとこんな感じだ。外からの電話の声の背後には
雨の気配が濃い。ベルナルドは眼鏡を外して、眉間を揉むと、普段よりぼんやりした視界の中、視点が定ま
らないままさ迷わせていると、視界を割るように電話のベルが鳴った。無意識に身体が動いて、受話器を取る。
『よっ、ベルナルド。・・・ちょっと久々?』
意識がまだはっきりしていないままだったから、気がつかなかった。最近持っていてもすっかり使いどころが
足りていなくて、持て余していた私費で繕った回線からの電話だった。盗聴されないように細工をしたそこか
らの相手は1人しかいない。
「・・・・ジャン」
電話の向こうの人間の名を呼ぶ。口にする度に身体を縛る鎖が軋んで締めつけられるような思いがした。あと
何回、名を呼ぶことを許されるのか分からなくて、恐かった。何気なく口をついたこれが、最後だったらと、
そればかり考えてしまう。許されているうちに、早く決めなければ。どうしたいのか、いや違う、自分は電話
越しの男とどうなりたいのかを、早く。『あ、もしかしてお取り込み中だったかしら?ダーリン』
ベルナルドの心情とは裏腹に、ジャンは何ともなさそうだった。殆ど使い物にならなくなっているお気に入り
の玩具を手放したくなくて、ずっと持ったままの子供のような自分など素知らぬ振りで、ただただ翻弄し続ける。
冗談めいたやり取りをする声が、眼球に針を刺すみたいに痛烈に胸を貫いた。
「・・・いや、大丈夫だよハニー。どうした?舌が溶けるくらい甘いロリポップでも欲しくなったのかな」
痛い。胸は痛いままなのに、不思議と何ともないかのように冗談混じりの返事ができた。これも普段の職務の
賜物か、とふっと思い、ベルナルドは小さく苦笑いした。電話の向こうの男には、見えることない表情。
『んー・・・いんや、いらねえかな。それより、何かくれるってんなら・・・ベルナルドの熱くて蕩けそうなチョコバーが欲しいかも』
電話越しにジャンが少し笑うだけで、細切れに吐息が漏れてきてこそばゆいと同時に、下肢が少しだけ熱を帯び
たところに誘うような言葉を投げかけられて、惑う。ジャンの様子からするに、さっきの言葉に潜ませておいた
こちら側の情報の譲渡、交換の必要はなさそうだ。本当ならそちらに心を痛めるべきで、情報漏洩の根源をすぐ
にでも炙り出さなければいけないのに、ジャンと自分にまつわる全てが心を狂わせて、もうどこを向いていたら
良いのか分からなくなっていた。思わず強く握りしめていた受話器に掌の汗がじわりと滲む。
「・・・・ッハハ、そうか。ハニーに望まれているなんて光栄だな。・・・・今すぐ、そっちまで行こうか?」
勿論肯定の返事など期待していない。流されて終りだろう。そうしたら、ちゃんと電話を、ジャンのことも切り
捨てる。出来る気がするかと聞かれたら何も答えられない。けれどどちらにせよ、ジャンはいずれ自分のことな
ど遊びだと言って、忘れるだろうからそれでいいと思っていた。いつだって執着は不均衡だ。釣り合わない。
『・・・・うん』
動かず、ただ佇む空気の中で鈴が鳴るみたいに、ぽろりと零れて響く声は、さっきまでのジャンの声とは違った。
隠れていた感情が不意に滲み出たようだった。完璧に存在を切り捨てられないのは、ジャンも同じなのかもしれ
ないと、儚い妄想を抱いた。
「・・・・分かった」
ベルナルドはガチャリ、と受話器を置いて立ち上がる。動き出すには、あの1声だけで充分だった。電話線が絡む
間を縫ってドアの方へ出る。ドアノブに手をかけてから、窓の向こうを見た。雨は一向に、止まなさそうだった。




一方的にベルナルドに電話を切られてから、どれくらい経っただろう。本当に来るかどうかも分からないのに、
ジャンは電話ボックスから動かずにいた。何と読んだらいいか分からない、曖昧な関係を続けてきたけれど、今
まで一度も組織の情報や物の取り引きなどはしてこなかった。元から完璧に信用しきっている仲でもないが、そ
ういうところは守ってきていて、少し信じかけていたところもあったのに、今更探りを入れられて微妙に裏切ら
れたような思いがする。最初そもそも裏切ったのは誰かと言われたらそれまでだけれど。どこの誰でもない、た
だの自分自身だけ、ベルナルドが求めてくれればいいと思った。それだけで、とその続きを露で霞んだ電話ボック
スの壁越しに外を眺めながら考える。それだけでいいけれど、きっと叶わない。
「ッジャン・・・!!!」
突然電話ボックスのドアが勢いよく開いた。鼓膜を振るわすは息を切らせ混じりに自分の名を呼ぶベルナルドの声。
呼ばれるまま、振り向き様に一瞬で腕の中に引き込まれた。雨を避けきれなかった分だけコートが濡れていて、触