lotus
子守唄
「ただいま」
駆けて来る小さな足音も、
「おかえりなさい」の幼い声も、
足に纏わりつく温かみも、
腕にかかる重みも、
今はない。
静けさが支配する双児宮。
私が一人だった頃と変わらない。ただ元に戻っただけのはず。
なのに連なる石畳がひどく冷たく、立ち並ぶ石柱が檻のように感じるのは何故なのだろう。カノンとの別れ以上にダメージを受けているのはなぜなのか。
すべてが、灰色に見えた。
【 lotus ー子守唄ー 】
小さなスプーン。
小さなフォーク。
まるで玩具のようにさえ思える食器たち。
かちゃかちゃと纏めて、箱に入れる。ビィーっと伸ばしたクラフトテープが綺麗に箱を封じた。
そのあとで、「あっ」と小さく声をあげる。一緒に入れようと思っていたのに、忘れていたものが寂しげにこっちを見ていた。
ここにはあまり遊具らしいものはないから、と手作りしたドングリで作った天秤と太鼓。私の指先に乗る天秤を不思議そうに顔を傾げながら、あの子はちょいちょいと小さな指先で突いていた。
とことこと音をたてる太鼓を嬉しそうにあの子は声を上げて笑った。
ーーーこれも、なおさなくちゃな
ビッと勢い良くテープを剥がし、もう一度見つめた後、そっと中へ入れ、再びテープで封をする。そして片手に箱を抱え、双児宮の最奥へと向かった。
奥まった場所にある部屋の前で立ち止まる。
古ぼけた扉にトントンとノックする。
『はい』という返事が今にも聞こえてきそうだった。ドアノブにぶら下がるようにして、笑みを浮かべながら扉を開けるあの子が今にも現れそうな気がした。
ーーーそんなはずはないのに。
溢れた笑みは口元がひどく歪んでいるように思えた。うまく笑えない。
返ってくるはずもない返事を待つことを止めて、自らドアノブを回し開ける。
薄暗い部屋に明かりを灯し、見渡す。
アイオロスと一緒に運んだベッドの上に置かれた枕は、中央よりも少し端に置かれ、小さな頭の形を残したまま。一応、足下に折り畳まれていたけれども皺までは伸ばされておらず、少し歪んでいた掛け毛布。そっとベッドの真ん中に手を添えて、冷たい感触に指先を引っ込めた。
常の私ならば、きちんと皺を伸ばし、枕もきちんと形を整えて、あるべき中央に置いただろう。愛し子が、安らかな眠りが得られるようにと。けれどもできなかった。あの子がいた痕跡を少しでも残したくて、手をつけることなどできなかったのだ。
机に視線を移せば、短くなった鉛筆と小さく丸まった消しゴム、そして薄く汚れたノート。その脇には何冊か本が重ねられていた。
箱を机の上に置いて、本を取ると後ろのほうに栞が挟まれていた。そういえば、栞を挟んだのは私自身だったと、遠い過去のように思いながら、数行目を通す。
この本の結末、とても感動的なものだったのに———あの子は知らないままだ。
こんなことなら、もう遅いから寝なさいと寝かしつけずに、強請るままに読んであげればよかったと後悔する。
ぱたん、と本を閉じてノートへと指を伸ばす。カタっと私には小さ過ぎる椅子に腰を少しかけて、ノートを手にしてパラリ、パラリ、と捲った。
字を覚えさせるために、あの子を抱きかかえながら、手を重ね、一文字ずつ丁寧に繰り返した書き取り。日が経つにつれ、一人で書くことができるようになった。
瞑ったままの瞳でありながら、その器用さに感心した。
ところどころ『E』が『3』になっていたり、『W』が『M』になっていたりするのはご愛嬌だろうか。いつの間にか眦が下がり、微笑みを浮かべていた。
途中からは日記となっている。時には3行だったり、時にはびっしりと隙間なく文字が埋め尽くしていたり。その日その日のあの子の心模様が綴られていた。
ぱらり。
最後のページ。
真っ白の紙、そして、その隣の紙の真ん中には小さくも力強い文字で、短い文章が書かれていた。
「―――っ!」
鼻の奥がツンと痛んだ。目頭がひどく熱い。歯を食いしばり、拳を握り締め、溢れ出そうになるそれを必死に押し止める。
伝えたかったのに。
私は最後まで、その言葉を口にはしなかった。たった一言告げるだけだったのに。
『 』
幻の言葉。
もう、届かない。
もう、届けられない。
「ーーー私もだよ、シャカ」
届くはずもない言葉を掠れた声で絞り出した。
薄闇の天井を仰ぎ、睨みつけながら幾度か荒い息を吐く。ようやく呼吸が落ち着いた頃、ノートを閉じて部屋を出た。
かちゃりと背後で扉の閉まる音を耳にしながら、すっと双眸を落とす。
さわさわと内なる力を高めていく。
子守唄のように穏やかに、
睦言のように優しく。
そして、深呼吸を一つしたのち、神聖な誓いを立てるように厳かに言葉を放った。
「アナザー……ディメンション!」
Fin.