lotus
1.種
「それ」を初めて見た時の衝撃は、今も覚えている。
幾月も彷徨った、野良犬のような醜く汚れた姿、例えようのない悪臭の中で「それ」はいた。
光差すことのない古ぼけた寺院は、生い茂る草木に覆われるようにして隠されていた。入り口は固く閉ざされ、窓も目張りされていたにもかかわらず、辺り一帯には腐臭が漂っていた。
中でなにが起きているのか、想像に難くなかった。
怯えの色さえ覗かせながらも、なけなしの勇気を振り絞り、同行した雑兵たちがドアを蹴破ると、中からは堪え難いほどに腐敗した、澱む空気が這い出て来た。
たまらず、その場から逃げ出し、催す生理現象に屈する者も多くいた。かろうじて留まることができた者たちも、一様に顔を顰め、口元を覆い隠し、目に見えない結界に阻まれているかのように、ある一定の線からは一歩も踏み出すことも出来ずにいた。
開放された扉から、差し込んだ光によって、中の光景が無惨にも映し出された。
皆、固唾を呑み、目に飛び込んだ光景を認めることができない、といった困惑の表情で、ただ無言のまま凝視するばかり。
現実は目の前にあったとしても自己を作り上げてきた思想や習慣、信念……そういったものが、この極限状態を映し出す目の前の真実を認めようとしないという、ある種の乖離状態に全員が捕われていた。
この場所を訪れた目的の「それら」の救出は叶えられなかった。もたらされた情報がもっと早ければ、と悔やまれて仕方なかった。「それら」はもう、触れる事も、近づく事さえも憚られるような不潔極まりない汚物といっても過言ではない、腐った海と化してしまっていたのだ。
それでも、最も奥深くに唯一同化を免れたものがいた。
「それ」の周囲には既に形を為さない、小さな躯がいくつもあった。このまま、誰も訪れる事がなかったら、遠からず、「それ」もまた同じ運命に飲まれるはずだったことだろう。
こみ上げるのは嘔吐感だけではなかったが、それらを必死で押さえ込みながら、目を凝らす。わずかに上下する胸郭の動き。確かに「それ」が生きているのだということを証していた。
正直、驚いたものだ。劣悪な環境の中にあって、「それ」の生命の火は幾度となく消えかけたはず。けれども、種火ほど弱くはあっても、灯し続けてきたのだろう。
駆け巡る思考が呪縛を吹き飛ばし、全身へと一気に血を巡らせた。
どくん。
大きく鼓動するたびに、指先に痺れを伴わせた。
動き出した血流、神経。
指示するよりも早く、動き出した足。
腐海の中を彷徨い泳ぐように「それ」へと近づいた。同行者たちの諌める声がした。
それが、悲鳴に近いものへと変化したのを遠く耳にしながら、「それ」に手を伸ばし、抱き上げる。
小さすぎる、軽すぎる、塊。
それでも「それ」が決して無機物などではないのだと証明するように、仄かな温かさを伝えた。じんわりと胸の奥から、幾多の感情が綯い交ぜとなってこみ上げ、目頭を熱くした。
「―――ありがとう。生きていてくれて......ありがとう」
私はただ、それだけを告げるのが精一杯だった。