lotus
2.蒔種
「―――ようやく、ニオイが取れたようだな」
眩しく照る太陽のような、屈託ない笑顔を向ける友人の言葉に「それはよかった」と、正直にほっとした表情を私は浮かべた。
「これで、洗濯バサミともおさらばだ、いや、マジでヤバかったよな〜あの激臭は!」
笑いながら、友人―――アイオロスはバンッと勢いよく、私の背中を叩いたものだから、思わず「けほっ」と咽せ込んだ。まったく手加減というものがないな、と不満を漏らすが、どこ吹く風と聞き流されてしまう。
「しかし、そうはいっても、おまえくらいだったよ。この子の面倒を一緒にみてくれたのは。白状すれば、とても助かった」
清潔なシーツに包まれたベッドの上で、日中のほとんどを眠り過ごす赤子のような小さな子をふたりで覗き込んだ。シーツからはみ出た腕は異様なほどに痩せていて、骨と皮だけ。口から栄養を取ることができないからと、鼻から入れられた細いチューブが、いまだ危機的状況には変わらないことを示しているようで恐ろしかった。落窪んだ目もずっと閉じられたままで、開かれる事は今のところ一度もなかった。
痛々し過ぎる姿には変わらなかったが、当初とは劇的に違っていたのは、肌の色が透けるように白いということがわかったこと。そして、絡まりすぎていたために剃られた頭にはうっすらと生えた金色の産毛。まるで綿毛の雛のようにも見えて、愛らしくもあった。
「あはは、気にすんな。困った時はお互い様、じゃないか。でも、なんだかな〜って思う。何の為の救護施設なんだろうな、『うちじゃ、看れません』と門前払いってさ、いかがなものかと思ったけど。如何せん、あの殺人的臭気は反則技だよなぁ。ある意味、敵に通用するかもって思うと、こいつは既に立派な聖闘士?」
廊下を通り過ぎる人影を横目に、僅かにアイオロスは声を潜めた。ここはたった今アイオロスが批判したばかりの救護施設であったからだ。
「そんな聖闘士、厭過ぎるぞ、アイオロス。仕方なかったんだよ。弱り過ぎていたから、拭き取るくらいしかできなくて。あまりしっかりと汚れを取り除くことができなかったんだ。でも、ここにきて少しは安定してきたから、ようやく、ちゃんと入浴させることができたんだ」
くんと鼻孔を掠めるのは破壊的な悪臭ではなく、心落ち着かせる石鹸の香り。
「んで、救護施設に移動していい、と教皇さまからようやくお許しを頂いた、ということか。よかったな、坊主。おまえが居た小屋は、さっき雑兵たちが焼き払って処分してたぞ、滅菌だ〜消毒だ〜って息巻いてた」
まるでお祭り騒ぎだったと、その様子を見てきたアイオロスは笑いながら、眠る子供の頭を気持ち良さげに撫でてみせた。
「―――随分な扱いだな。そのうち私も焼かれるんじゃないのか?」
冗談のつもりで言ったが、冗談では済まされないような気がして、背筋に冷たいものが走った。「せいぜい、水に放り込まれるくらいじゃね?」とアイオロスは慰めにしては薄ら寒いことを言って退ける。
「では、そうなる前にこの子はここに任せて、私は自宮で休む事にするよ」
「ひと月とちょっと―――か。よくやったよ、おまえは。お疲れさん。今日はゆっくり安め。あとは俺が看ておくから」
「ああ」
そういって立ち上がった私にアイオロスが何か言いたげな視線を送った。
「どうした」
「ん、いや......教皇さまが言っていたんだけどな。やっぱり、おまえが言っていた通りかもしれないってさ。こいつ、土着の民とはまるで違うもんな。信仰だとか、文化とか―――大事にしきゃ、って思うけどさ...惨たらしい文化なら、消えてなくなっちまえって思った」
「―――この子が生け贄となるために、誘拐された子の一人、か。信仰のために、文化を守るために必要な犠牲だと言われても......確かに認めたくはないな、私も」
どっと疲労感が増した気がした。世の中には侭ならぬ事が、多くあることもわかっている。不条理にしかみえないものも、当人たちにすれば、正義でしかなくて、良きものと信じて疑わないから、残酷にだってなれるのだということも、わかってはいるつもりだった。
「だから、俺たちは間違ったりしないように、しなくちゃいけないんだ。もっと、学んで、もっと、強くなって。正しく進んでいかなきゃいけないんだ、サガ」
「そうだな」
アイオロスは真っ直ぐな視線で私を見た後、子供へと向けた。小さな手を包み込むアイオロスの手が僅かに震えていたのが印象的だった。
アイオロスはさらに研鑽すべく、修行に身を投じていくのだろう。確固たる信念の元に。
そして、私は―――人間という生き物が果たして、守るに値するものなのか、深く考え、悩むようになった。