第一種接近遭遇
中三の夏の話。
右手には携帯電話、左手には小さな紙片。さっきから忙しなく双方に視線をやっては周囲を見渡す。本当はもう見なくたって無駄なのは判っている。これまでに散々見て、脳内に叩き込んでしまったのだ。鉛筆で走り書きされた文字の一言一句。ナビの示す地図の詳細を。
ぱくん、とアツロウはフリップを閉じ、植え込みやブロック塀に目をやって、再度紙片を覗き込んだ。顔を上げて塀にはめ込んだ表札を眺める。さっきからこれの繰り返しだ。
「うたい…… うたい、うたい……唄依、と …………あった!」
今時珍しく、木塀に木戸。釘で打たれた木片に墨痕淋漓と記されていたのは「唄依」の姓。目的地に辿り着いたことにアツロウは思わず歓声を上げた。しかし次の瞬間、慌てて口を塞ぎあたりを見渡す。誰もいなかったことにほっとした。
ついてもいない埃を払う。肩から、肩にかけた鞄まで。ガラスの引き戸の横にある、古ぼけたチャイムに指を伸ばした。頼りない感触で指が沈む。一拍の後に、立て続けに鳴らしたような音が出て慌てて指を離した。
しまった、と思う。これじゃまるで「出てこいよ!」と上から目線で催促しているみたいじゃないか。いい印象は決して持たれないのはまず必至。謝らないと。半ばパニックに陥りかけた頭で解決策を探るが、妙案が出てこない。引き戸の向こうからはぱたぱたと足音が聞こえてくる。
「す、すすすすすすすんませんでしたァッ!」
ガラス戸が引かれると同時にアツロウは叫んだ。そしてすぐさま赤面する。怪しい。どう考えたってこれではただの不審者だ。終わった――とアツロウは思った。
「――――えっと…」
戸惑いがちに声を上げたのはガラス戸の向こうの家人。目的の人物ではなかった。同じ年頃の少年一人。ぱちぱちと瞬いた目は、どこか猫に似ている。少年は、口を開いてぼそりと言った。
「誰、アンタ」
「う。…ぅぅあーっと…その……うー…」
当然と言えば当然の問い。だが咄嗟に言葉が出てこない。やべえ、俺テンパッてる。そのことだけは、何故かしっかり把握できた。
「あー……っと、その……ども」
何はともかく挨拶だ。ぺこりと頭を下げる。少年も、短く「ども」と言いながら頭を下げた。よかった、と内心胸を撫で下ろす。心配していたほどには警戒心を抱かれてはいなかったようだ。
アツロウはしゃきっと背筋を伸ばした。少年が、目指す人物の家族であろうことは間違いなかった。失礼があっては――もう今更だろうが――いけない。
「ナオヤさん、いますか」
「――――ああ」
少年が、得心のいった顔をする。肩越しに振り向いて、大声を上げた。
「ナオ兄ー! お客ー!」
少し、ぎょっとした。あの人、あんな呼ばれ方してんのか。だがまあそれも、兄弟(だろう、多分)なら納得だ。廊下の向こうからの返事はない。再び少年が声を張り上げる。返って来たのは静寂のみ。
「チェッ、あの馬鹿」
今度はもっとぎょっとした。一瞬、聞き間違いかと思った。舌打ちと共に吐き出された単語は褒め言葉では決してない。半ば唖然とするアツロウをよそに、少年は一人家の中へと身を引っ込める。廊下を二歩、三歩と早足で進み、思い出したように振り向いた。
「あがんなよ」
「へっ?」
「――こっち」
指を軽くひらめかせて、着いて来るよう促された。どうやら、案内してくれるものらしい。慌てて靴を脱ぎ、少年の後ろを着いて行く。
「おじゃましまー…す」
小声で言いながら廊下を歩むと、ぎしっと軋む音がした。黒光りする木の色からして、相当年代ものなのはまず間違いなく……アツロウは不安に駆られた。ここ、本当にあの人の家でいいんだよな?
右手には携帯電話、左手には小さな紙片。さっきから忙しなく双方に視線をやっては周囲を見渡す。本当はもう見なくたって無駄なのは判っている。これまでに散々見て、脳内に叩き込んでしまったのだ。鉛筆で走り書きされた文字の一言一句。ナビの示す地図の詳細を。
ぱくん、とアツロウはフリップを閉じ、植え込みやブロック塀に目をやって、再度紙片を覗き込んだ。顔を上げて塀にはめ込んだ表札を眺める。さっきからこれの繰り返しだ。
「うたい…… うたい、うたい……唄依、と …………あった!」
今時珍しく、木塀に木戸。釘で打たれた木片に墨痕淋漓と記されていたのは「唄依」の姓。目的地に辿り着いたことにアツロウは思わず歓声を上げた。しかし次の瞬間、慌てて口を塞ぎあたりを見渡す。誰もいなかったことにほっとした。
ついてもいない埃を払う。肩から、肩にかけた鞄まで。ガラスの引き戸の横にある、古ぼけたチャイムに指を伸ばした。頼りない感触で指が沈む。一拍の後に、立て続けに鳴らしたような音が出て慌てて指を離した。
しまった、と思う。これじゃまるで「出てこいよ!」と上から目線で催促しているみたいじゃないか。いい印象は決して持たれないのはまず必至。謝らないと。半ばパニックに陥りかけた頭で解決策を探るが、妙案が出てこない。引き戸の向こうからはぱたぱたと足音が聞こえてくる。
「す、すすすすすすすんませんでしたァッ!」
ガラス戸が引かれると同時にアツロウは叫んだ。そしてすぐさま赤面する。怪しい。どう考えたってこれではただの不審者だ。終わった――とアツロウは思った。
「――――えっと…」
戸惑いがちに声を上げたのはガラス戸の向こうの家人。目的の人物ではなかった。同じ年頃の少年一人。ぱちぱちと瞬いた目は、どこか猫に似ている。少年は、口を開いてぼそりと言った。
「誰、アンタ」
「う。…ぅぅあーっと…その……うー…」
当然と言えば当然の問い。だが咄嗟に言葉が出てこない。やべえ、俺テンパッてる。そのことだけは、何故かしっかり把握できた。
「あー……っと、その……ども」
何はともかく挨拶だ。ぺこりと頭を下げる。少年も、短く「ども」と言いながら頭を下げた。よかった、と内心胸を撫で下ろす。心配していたほどには警戒心を抱かれてはいなかったようだ。
アツロウはしゃきっと背筋を伸ばした。少年が、目指す人物の家族であろうことは間違いなかった。失礼があっては――もう今更だろうが――いけない。
「ナオヤさん、いますか」
「――――ああ」
少年が、得心のいった顔をする。肩越しに振り向いて、大声を上げた。
「ナオ兄ー! お客ー!」
少し、ぎょっとした。あの人、あんな呼ばれ方してんのか。だがまあそれも、兄弟(だろう、多分)なら納得だ。廊下の向こうからの返事はない。再び少年が声を張り上げる。返って来たのは静寂のみ。
「チェッ、あの馬鹿」
今度はもっとぎょっとした。一瞬、聞き間違いかと思った。舌打ちと共に吐き出された単語は褒め言葉では決してない。半ば唖然とするアツロウをよそに、少年は一人家の中へと身を引っ込める。廊下を二歩、三歩と早足で進み、思い出したように振り向いた。
「あがんなよ」
「へっ?」
「――こっち」
指を軽くひらめかせて、着いて来るよう促された。どうやら、案内してくれるものらしい。慌てて靴を脱ぎ、少年の後ろを着いて行く。
「おじゃましまー…す」
小声で言いながら廊下を歩むと、ぎしっと軋む音がした。黒光りする木の色からして、相当年代ものなのはまず間違いなく……アツロウは不安に駆られた。ここ、本当にあの人の家でいいんだよな?