驟雨
京都に訪れた夏は過ぎ去り、ちらほらと紅葉の気配が漂いはじめた頃。
不浄王の右目を奪い、裏切った罪で宝生蝮が拘束されてから数週間が経過していた。
その身に自ら右目を重ねた代償は大きく、辛うじて命を落とすまでには至らなかったものの、未だ身の内に残る瘴気に苛まれ続けていた。そのこともあり、虜囚の身でありながら、本来入るべき牢ではなく、どこかの屋敷の一室に設けられた床に伏せり裁きを待っていた。
一見すればただの病人の部屋であったが、周囲に張り巡らされた結界は、中に居る者が出ようとすれば、それを阻止すると共に周囲へ連絡が飛ぶように配置されていた。
そんな中、蝮を訪ねてやってきた者がいた。
「父さま……」
久しぶりに顔を見た父親は、心労のせいか、随分とやつれて見えた。
その大部分が自分自身と、自分が深く関わった騒動のせいであるとわかるだけに、蝮の胸は今更ながらの罪悪感に痛んだ。
けれどもそんな父親は、久方ぶりに対面する娘になにがしか気遣いの言葉をかけるわけでもなく、仕事の知らせを告げるような淡々とした調子で口を開いた。
「お前の嫁ぎ先が決まった」
本来ならば目出たい意味合いを持つその言葉を、彼女の父親は些かの笑みも浮かべずに告げた。
たった一言。簡潔なものだった。
「なにを……」
表情の変わらない父親とは対照的に、蝮の顔に動揺が浮かんだ。
仮にも裏切り者の罪人である蝮は、正十字騎士團と明陀衆とそれぞれの間で定められる裁きを待つ身であった。
そんな女に嫁の貰い手どころか、縁談の話が舞い込むはずもない。
驚くと同時に訝しんだ彼女であったが、しかしよくよく話を聞いてみれば、嫁ぎ先はよりによって志摩家の二男坊だという。そして蝮が出て行った後の宝生家は青か錦か、いずれかの下の妹たちが継ぐことになるのだと。
話は先方から申し出た事だというが、要は態のいい軟禁だ。表向きとはいえ婚姻の形を取ると言うことはつまり、言わば無期監禁ということか。加えて造反者を出した宝生家に対する見せしめの意味での人質でもあった。未だ騒動の混乱が落ち着ききらない中、仮にも僧正血統の宝生家を取り潰せば更なる混乱を招きかねない。形の上だけでも蝮が志摩家に入ることは、それら全てを一度に解決することのできる処遇であった。
一切合財を、全ての感情を切り捨てたように淡々と語った父は、娘にどうするのかと返答を迫った。
もしも拒めば別の処遇が既に用意されているのだろう。それがどのようなものになるかは彼女には具体的な想像もつかなかったが、少なくとも父親の心労と悲しみを増す結果になることだけは理解ができた。
あのような出来事が無かったならばいざ知らず、今の蝮に残されている言葉は一つきりしかなかった。
「……わかりました。お受けします」
深く頭を下げた時に目に入ったはずの掛け布団の模様が何だったのか、いくら記憶を辿っても思い出す事ができなかった。
**********
何も知らない一般世界の目を誤魔化すためなのか、それとも何かの体面のためなのか、行われるはずはないと思われた祝言は形通りに開かれた。
その場に招かれたのはごく一部の身内と、目付のためだろう正十字騎士團の人間が数名だけの、ささやかなものだった。
お仕着せの白無垢に包まれた蝮は、綿帽子から僅かに覗く切れ長の目尻と唇に刺した紅ばかりがぽつりと紅かった。
本来ならば晴れの日の装束であるそれはずしりと重く、さながら蝮を捉える枷のように思えた。
苦い思いばかりを抱え、作法通りに三三九度の杯を交わす。
酔うはずもない僅かばかりの神酒は、酷く胸を焼いた。
蝮の隣に座り、全く同じ作法をしてみせた柔造は、いつもの人好きのする顔をしておらず、唇を真一文字に引き結んだ険しい顔をしていた。それもそうだろう、と酷く冷めた心持ちで蝮は納得をしていた。何しろこれは惚れた腫れたの末での婚姻などではなく、いわば政略結婚の類のものだ。まして、柔造と蝮とは日頃からも何かにつけて折り合いがよろしくなかった。笑みを浮かべるとすれば、彼女に対する嘲笑が相応しいに違いない。
誰一人として笑みを浮かべない祝言は、さながら白装束での葬式であった。
事実、その日をもって宝生蝮という女は葬られ、代わりに志摩蝮という仮初めの存在が生まれた。
祝言の日は、蝮の大嫌いな雲一つない快晴だった。
日を遮った座敷から世話役に連れられて表に出た時、目を焼いた日の光の眩しさが痛かった。
その晩、蝮は柔造と一つ部屋で床を共にした。
とはいえど、あくまでそれも形だけのものだった。
柔造は部屋に入りはしたものの、軽く白湯を口にすると、蝮に目をくれることもなく並べられた布団の一方へ横になった。
まあそれも当然だろうと納得はした。どうして好いてもいない者と、表向きだけとはいえ祝言をあげさせられ、あまつさえ初夜の真似ごとまでできるはずもない。
一体どこまでこの体面だけの戯言が続けられるのだろうかと、闇の中で柔造の寝顔を見つめ、蝮はそう思った。
**********
そして、祝言の翌日から蝮は新居という名の牢獄に繋がれた。
彼女が居る事を許された範囲には結界が張り巡らされ、必要以上の場所へは行くことができないようにされていた。彼女は一歩たりとも敷地内から出ることはできなかった。
柔造がいない間は、男女一組の世話役という名の監視者が付き添い、常に彼女を見ていた。彼らの姿が無くなるのは、柔造が戻ってきてからだ。
驚く事に、初夜の日だけではなく、柔造は蝮と寝所を共にし続けていた。てっきり一夜だけの形式のために床を用意したとばかり思っていただけに、それは予想外の行動であった。だがそこに特別な意味を見出すことはしなかった。柔造が蝮と行動を共にするのも、単に監視行為の一環だと思えば理解はできた。
けれど、行為の理由を理解するのとは裏腹に、次第に柔造の本心がわからなくなっていった。
何も志摩家の次期当主が罪人の女を娶らずとも、その役目を背負うだけならば他の人間でも構わなかったわけだ。それに伴う必要な監視の手配は、明陀と正十字とでいくらでも用意をするだろう。昔から柔造はむしろ人の嫌がる事を進んで引き受ける性質ではあったが、いくらなんでもこれは行き過ぎている。一体、何を思って彼が蝮を傍に置く事を決めたのか。ただ嫌っていた相手を下に見て優越感を得るためだけの行為にしては荷が重すぎた。
そんな不審を抱きながらも、日々は淡々と過ぎていく。
特に何かをすることは求められなかった。求められたところで、彼女の内に残る瘴気は未だに蝮を苛み続けていたので、これと言ってできることもあるはずもなく、むしろ伏せっているばかりが多かった。だからただ黙って定められた範囲だけで過ごしていれば良かった。
雨の降った日には、伏せったまま障子を少し開け、雨に濡れる土の匂いと雨音を聞いた。
蛇を召喚できないようにと、白い両腕には禁術の印が刻まれていた。印を刻まれる痛みよりも、あの可愛がっていた蛇たちと二度と会えない切なさの方が辛かった。
不浄王の右目を奪い、裏切った罪で宝生蝮が拘束されてから数週間が経過していた。
その身に自ら右目を重ねた代償は大きく、辛うじて命を落とすまでには至らなかったものの、未だ身の内に残る瘴気に苛まれ続けていた。そのこともあり、虜囚の身でありながら、本来入るべき牢ではなく、どこかの屋敷の一室に設けられた床に伏せり裁きを待っていた。
一見すればただの病人の部屋であったが、周囲に張り巡らされた結界は、中に居る者が出ようとすれば、それを阻止すると共に周囲へ連絡が飛ぶように配置されていた。
そんな中、蝮を訪ねてやってきた者がいた。
「父さま……」
久しぶりに顔を見た父親は、心労のせいか、随分とやつれて見えた。
その大部分が自分自身と、自分が深く関わった騒動のせいであるとわかるだけに、蝮の胸は今更ながらの罪悪感に痛んだ。
けれどもそんな父親は、久方ぶりに対面する娘になにがしか気遣いの言葉をかけるわけでもなく、仕事の知らせを告げるような淡々とした調子で口を開いた。
「お前の嫁ぎ先が決まった」
本来ならば目出たい意味合いを持つその言葉を、彼女の父親は些かの笑みも浮かべずに告げた。
たった一言。簡潔なものだった。
「なにを……」
表情の変わらない父親とは対照的に、蝮の顔に動揺が浮かんだ。
仮にも裏切り者の罪人である蝮は、正十字騎士團と明陀衆とそれぞれの間で定められる裁きを待つ身であった。
そんな女に嫁の貰い手どころか、縁談の話が舞い込むはずもない。
驚くと同時に訝しんだ彼女であったが、しかしよくよく話を聞いてみれば、嫁ぎ先はよりによって志摩家の二男坊だという。そして蝮が出て行った後の宝生家は青か錦か、いずれかの下の妹たちが継ぐことになるのだと。
話は先方から申し出た事だというが、要は態のいい軟禁だ。表向きとはいえ婚姻の形を取ると言うことはつまり、言わば無期監禁ということか。加えて造反者を出した宝生家に対する見せしめの意味での人質でもあった。未だ騒動の混乱が落ち着ききらない中、仮にも僧正血統の宝生家を取り潰せば更なる混乱を招きかねない。形の上だけでも蝮が志摩家に入ることは、それら全てを一度に解決することのできる処遇であった。
一切合財を、全ての感情を切り捨てたように淡々と語った父は、娘にどうするのかと返答を迫った。
もしも拒めば別の処遇が既に用意されているのだろう。それがどのようなものになるかは彼女には具体的な想像もつかなかったが、少なくとも父親の心労と悲しみを増す結果になることだけは理解ができた。
あのような出来事が無かったならばいざ知らず、今の蝮に残されている言葉は一つきりしかなかった。
「……わかりました。お受けします」
深く頭を下げた時に目に入ったはずの掛け布団の模様が何だったのか、いくら記憶を辿っても思い出す事ができなかった。
**********
何も知らない一般世界の目を誤魔化すためなのか、それとも何かの体面のためなのか、行われるはずはないと思われた祝言は形通りに開かれた。
その場に招かれたのはごく一部の身内と、目付のためだろう正十字騎士團の人間が数名だけの、ささやかなものだった。
お仕着せの白無垢に包まれた蝮は、綿帽子から僅かに覗く切れ長の目尻と唇に刺した紅ばかりがぽつりと紅かった。
本来ならば晴れの日の装束であるそれはずしりと重く、さながら蝮を捉える枷のように思えた。
苦い思いばかりを抱え、作法通りに三三九度の杯を交わす。
酔うはずもない僅かばかりの神酒は、酷く胸を焼いた。
蝮の隣に座り、全く同じ作法をしてみせた柔造は、いつもの人好きのする顔をしておらず、唇を真一文字に引き結んだ険しい顔をしていた。それもそうだろう、と酷く冷めた心持ちで蝮は納得をしていた。何しろこれは惚れた腫れたの末での婚姻などではなく、いわば政略結婚の類のものだ。まして、柔造と蝮とは日頃からも何かにつけて折り合いがよろしくなかった。笑みを浮かべるとすれば、彼女に対する嘲笑が相応しいに違いない。
誰一人として笑みを浮かべない祝言は、さながら白装束での葬式であった。
事実、その日をもって宝生蝮という女は葬られ、代わりに志摩蝮という仮初めの存在が生まれた。
祝言の日は、蝮の大嫌いな雲一つない快晴だった。
日を遮った座敷から世話役に連れられて表に出た時、目を焼いた日の光の眩しさが痛かった。
その晩、蝮は柔造と一つ部屋で床を共にした。
とはいえど、あくまでそれも形だけのものだった。
柔造は部屋に入りはしたものの、軽く白湯を口にすると、蝮に目をくれることもなく並べられた布団の一方へ横になった。
まあそれも当然だろうと納得はした。どうして好いてもいない者と、表向きだけとはいえ祝言をあげさせられ、あまつさえ初夜の真似ごとまでできるはずもない。
一体どこまでこの体面だけの戯言が続けられるのだろうかと、闇の中で柔造の寝顔を見つめ、蝮はそう思った。
**********
そして、祝言の翌日から蝮は新居という名の牢獄に繋がれた。
彼女が居る事を許された範囲には結界が張り巡らされ、必要以上の場所へは行くことができないようにされていた。彼女は一歩たりとも敷地内から出ることはできなかった。
柔造がいない間は、男女一組の世話役という名の監視者が付き添い、常に彼女を見ていた。彼らの姿が無くなるのは、柔造が戻ってきてからだ。
驚く事に、初夜の日だけではなく、柔造は蝮と寝所を共にし続けていた。てっきり一夜だけの形式のために床を用意したとばかり思っていただけに、それは予想外の行動であった。だがそこに特別な意味を見出すことはしなかった。柔造が蝮と行動を共にするのも、単に監視行為の一環だと思えば理解はできた。
けれど、行為の理由を理解するのとは裏腹に、次第に柔造の本心がわからなくなっていった。
何も志摩家の次期当主が罪人の女を娶らずとも、その役目を背負うだけならば他の人間でも構わなかったわけだ。それに伴う必要な監視の手配は、明陀と正十字とでいくらでも用意をするだろう。昔から柔造はむしろ人の嫌がる事を進んで引き受ける性質ではあったが、いくらなんでもこれは行き過ぎている。一体、何を思って彼が蝮を傍に置く事を決めたのか。ただ嫌っていた相手を下に見て優越感を得るためだけの行為にしては荷が重すぎた。
そんな不審を抱きながらも、日々は淡々と過ぎていく。
特に何かをすることは求められなかった。求められたところで、彼女の内に残る瘴気は未だに蝮を苛み続けていたので、これと言ってできることもあるはずもなく、むしろ伏せっているばかりが多かった。だからただ黙って定められた範囲だけで過ごしていれば良かった。
雨の降った日には、伏せったまま障子を少し開け、雨に濡れる土の匂いと雨音を聞いた。
蛇を召喚できないようにと、白い両腕には禁術の印が刻まれていた。印を刻まれる痛みよりも、あの可愛がっていた蛇たちと二度と会えない切なさの方が辛かった。