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驟雨

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そんな蝮を憐れんでか、それとも皮肉のつもりなのか、しばらくして柔造から蝮にあてて一匹の白蛇が贈られた。成人男性の太腿くらいもあった大きな蛇とは違い、とぐろを巻けば手のひらに乗るくらいの小さな白蛇だった。ちろちろと赤い舌を出しては蝮に懐く様が可愛らしかったが、あまり大きくならない種類の蛇だと聞かされた時に、少しだけ落胆した。
ひょっとしたらこの白蛇を利用して裏切り者から蟲毒か何かを仕掛けられるかもしれないのに、迂闊な事をするものだと蝮は思った。もっとも、何か妙な事を企てたりできないようにと常時監視をされているため、仕掛けることは端からできるはずもなく、何より蝮自身から、そんな術を仕掛けるような気力も何もかも失せてしまっていた。
何もかも、どうでも良かった。
信じて突き進んだものが実は誤りであり、利用されていただけだとわかった今、彼女は燃え尽きた抜け殻のようだった。
以前は柔造に向かって威勢の良い言葉も態度も向けていたのが嘘のように、蝮はめっきり口数も減り、ただ大人しく流れに身を任せるようにしていた。
日の下に出ることもほとんど無くなったせいで、元々色白だった蝮の肌は、より一層透けるように白くなっていた。
その白い肌も相まってか、どこか消え去ってしまいそうな弱々しい空気を漂わせるようになっていた。

**********

すっかり牙を抜かれたふぬけた蛇に成り下がっていたというのに、そんな言葉を口に出したのは、何がきっかけだっただろうか。
「まさに蛇の生殺しやなあ」
己が身を苛む瘴気がぶり返し、その間、床で伏せるしかなかった負担のせいなのか、その間に白蛇に触れることができなかった寂しさがもたらしたのか。いずれにせよ、鬱積していた何かをぶつける相手は、起きあがれるようになってから久しぶりに顔を見せた柔造であった。
夜更けに戻ってきた柔造は、当たり前のような顔をして蝮の隣に敷かれた布団へ横になろうとしていた。
その気配に目を覚まし、柔造の顔を見た途端、言いようのない苛立ちを覚えた。今の自分の立場も何もかも忘れ、以前のようにきつい調子で詰った。
「弱りよる蛇の姿を手元で眺められて、さぞ気持ちのええことでしょうね」
明らかに蝮の方から売った喧嘩だった。いや、喧嘩ですらない。ただの八つ当たりだ。
もしもこのまま柔造が激昂して、昔のように何か術を使うような実力行使に出たならば、蛇を呼ぶこともできない蝮は何の抵抗もできない。そうでなくともこれをきっかけに正十字へ申し立てられでもすれば、彼女に言い訳が許される余地は何処にも無かった。
けれども一度口火を切られた言葉は、止まる事を知らずに、次から次へと出て来てしまう。まるで忘れていた何かを必死で取り戻そうとするかのように。
そして、もう自分が何もできない事を承知の上で、彼女はあえて柔造と、そして自分自身に向けても皮肉るような言葉を口にし続けた。
「なんも志摩家の次期当主様、御自らが、こないな罪人の面倒を見んでもええのに、いつまでこない酔狂なことを続けるつもりでおるんや。いけ好かん蛇はどこか余所にでもやったらよろしやろ」
自分の顔が醜く歪んでいるのは、自分が一番よくわかっていた。こんな醜い顔を今まで誰の前でもしたことがない。その情けなさを自ら嘆くと同時に、気づかぬうちにゆっくりと少しずつ積り積もっていたものを振り払う心地よさにも酔っていた。
以前のように蝮の皮肉にすぐに激昂するかと思われた柔造は、しかし、落ち着いた様子で彼女へ向き合っていた。
「蝮、お前……。いや、お前がそう思うんも仕方ないんは、俺にもわかる。けどなあ、それはお前の誤解や」
「何が誤解ですのん?わざわざ結婚やなんて下手な芝居を打たんでも、さっさとどこぞの座敷牢か何かにでも押し込めとったらよろしいのに……。お優しいことどすなあ」
悲しげに眉を寄せた柔造に、少しばかり昔であれば、情けないとせせら笑ってやったことだろう。
なのに、今は妙に胸が痛むような気がした。
そんな錯覚を振り払うように、蝮は更に酷く詰る言葉ばかりを畳みかけた。
「ああ……そうか、あては正十字にとっての服従の証みたいなもんやからなあ。そら手元に置いておかんと何の証明にもならしませんものね」
くすりと自嘲の笑みを浮かべた。それはただ単なる強がりだったのかもしれない。なあ、そうやろ?と己の言葉への同意を求めることのできる相手は、今は目の前にただ一人しか居はしなかった。
「それは違う!俺は今のお前の事を、そないな風には見とらん」
途端、柔造が声を荒げ、蝮は目を見張った。以前は当たり前のようにこんな荒げた声を耳にしていたが、随分と長いこと聞いていなかったことに、改めて気づいた。
そのままいつもと同じように声を荒げて蝮に怒鳴るのかと思いきや、柔造はなにかを堪えるような顔をして、低く抑えた声で言葉を続けた。
「まだ瘴気で体が万全でないことは俺も重々承知の上や。だから、何もやらんでもええように、養生だけでも十分にできるようにさせてもろた」
なにをまた都合のいい事を言っているのだろう、と冷めた気持ちで蝮は柔造の言葉を受け止めていたが、さらに続いた言葉に息をのんだ。
「経緯や結果はどうあれ、明陀のことを考えてたんはお前かて一緒やろ」
「……あんた、何を言うとるの?」
声が震えた。
ついさっきまでと同じ勢いで鼻先で笑い飛ばそうとしたのに、上手くいかなかった。
経緯や理由はどうあれ、明陀を裏切ったのは宝生蝮だ。
今更理解してもらおうなどとは思っていない。
誰かに許しを乞おうとも思っていない。
道を踏み外してしまった事を悔いてはいけない、とも思っていた。
全ては自分が考え、決めて、動いたことだ。例えばそこに巧妙な誘導があったとしても、それでも最後に決断を下したのは蝮自身である。
例えそれが虚栄であったとしても、最後に残ったその頼りない芯に縋って立っていなければ、二度と立ち上がれなくなってしまうような畏れを抱いていた。それが、崩される。一人で立っていられなくなったならば、一体どうすればいいのか。蝮は何よりそれを恐怖した。
だがそれに気づいているのかいないのか、柔造の言葉は、蝮に残された最後のものを、たった一言で打ち崩した。
「お前は藤堂とは違う。お前は悪魔落ちしてへんのが何よりの証拠や」
口にされた言葉に、何もかものきっかけとなった人を思い出し、思わず蝮は逃げるように柔造から視線を反らした。
柔造の視線は揺るぎなく、しっかりと蝮を見つめ続ける。
「あの時……お前に引導渡したる、言うたのも、思うたのも事実や。顔も知らん誰かに討たれるくらいやったら、せめて俺の手でどうにか止めてやりたかった」
低い声でそう語る柔造は、あの時、蝮に引導を渡すと言い切った時と同じくらい真剣な澄んだ目をして彼女だけを見つめていた。
ようやく耳にする柔造の胸の内に、蝮は返す言葉を見つけられず、ただ黙りこんだ。
「なあ。もうちょっとお前は周囲の事を信じられんか?一人で考えて貯め込んで、それがこの結果や」
苦しげに歪められた顔は、目の前の相手を憎み睨んでいるようにも見ることはできたが、それよりも、何か彼の方が責められているかのような、痛みを堪えるようなものであった。
作品名:驟雨 作家名:ヒロオ