驟雨
柔造は何か言葉を探すようにしばらく視線を彷徨わせていたかと思うと、不意に蝮に手を伸ばした。
はたかれる。と、とっさにそう思った蝮は反射的に体を固くし、目を閉じた。
だが、訪れるはずであった衝撃は来なかった。
気づけば蝮は柔造の腕の中に抱きしめられていた。
「お前を助けよう、思うたら、これが俺にできる限りの方法やった……。
この話は、お前のおとんも、うちのおとんも、家族もみんな承知の上の話や」
柔造の腕の中は熱かった。
男の肌というものは、こんなにも熱いものなのかと、驚いた。
ひんやりとした蝮の肌が焼かれてしまうのではないかと思えるほどの熱に、くらりと目眩がする。
けれどもそれ以上に彼女を驚かせたのは、男の腕の力強さだった。
腕の熱さのあまり、柔造を遠ざけてしまいたいのに、きっとどれだけ力の程の抵抗をしたところで、この枷からは逃れることはできない。
ほう、と蝮の唇からあえかな吐息が漏れたのは無意識のことだった。
「どんだけ時間がかかるかはわからんけど、いつかお前が自由になれるようになったら、そんときは好きにしたらええ。こっから出て行ってもええ。けど、それまでは俺のことが嫌やろうても辛抱してくれや……」
なあ、頼むわ。と言った柔造の声は、聞いているこちらの方が胸を締めつけられてしまうほど、苦しげなものだった。
こんな声は今まで聞いたことがない。
脳裏に浮かぶのは、あの時、蝮を止めようとした柔造の激昂した声。そこにも確かに苦しさは滲んでいたが、今耳にした声色とはまた少し違う。
ぐ、と蝮を抱く柔造の腕に力が入って、男の胸元に頬を寄せるような格好になる。
男の肌の匂いが近くなった。
あんなにも顔をあわせる度に言い争っていたはずなのに、こんなに近くで肌を触れあわせたことは一度たりとも無かった。
「なんでなん……」
ようやく出した声は震えるばかりで、先ほどまでの激しい勢いはすっかり失われてしまっていた。
「なんでこんな、あての事を気ぃ使うん?」
その声色は今までのような、相手に対して激しくぶつけるような詰るものではない。
ただ純粋に何故、と問いかけることばかりが精いっぱいの、弱々しいものでしかなかった。
「堪忍な、蝮……。あないいがみ合うんやなくて、もっとちゃんと素直にお前と向きおうとったら良かった……」
柔造の口から漏れる後悔の言葉に、蝮の胸は締めつけられる。
どれだけ後悔をしたところで、今更、元の通りに時間を戻せるわけもない。なにもかもが遅すぎた。
けれども、こんな具合に遅すぎることがなければ、互いに触れあうきっかけは訪れないままであったかもしれない。
果たしてどちらが良かったのか、と問われて正しく答えられる者はいない。
ずっと張り詰めていた何かが一気に緩んでいくような錯覚を覚える。
「こんな生意気な女、どうとでも放っておいたらええ……」
柔造の腕に縋りながら、捕えられてから初めての涙がこぼれた。
はらはらと静かな雨が降る。
「放っておけるわけないやろ」
言って、その声の主は蝮を一層強く腕の中へ抱き込んだ。
雨は一晩中、止むことを知らずに降り続けた。
抱きしめる腕は片時もそれを離すことは無かった。