空と休日
小波がきこえる。
意識を浮上させ、瞼をひらいた。視界に入る光のいろが、いつもと違う。小波は、耳の中だけで鳴っていた。
……ああ、そうだった、ここは地球だ。
地球は── たくさんの人間がひしめき合うように生活するこの街も── 静かなものだ、とアレルヤは思う。宇宙とは全くちがうその静けさは、密集した気配がざわざわと蠢いていて、けれどやわらかくゆるんでいる。
床には薄い毛布が一枚敷かれているだけだった。起き上がると、重力に一晩みっちり押し付けられたからだが軋んだ。いてて、と口の中だけで呟き、まったく、と苦笑する。
床でいいと言い張ったのはアレルヤなのだから、文句も言えない。刹那の申し出を頑に受け取らなかった結果がこのざまだ。
言われたとおりにすればよかったかな、と、痛みのせいだけでなくアレルヤは後悔した。刹那が不器用なりに、差し出してくれた厚意を無碍にした罰がこれだというなら、いくらでも受けよう。悔いているのは、もし、刹那が
(気をわるくしていないといいんだけど)
……そんなことで。
刹那は自分のベッドで眠っている。
何度も寝返りを打ったのか、幾何学模様のような皺がたっぷりと寄ったシーツに埋もれるようにして。
アレルヤの身じろぎには、気づく様子もない。閉じた長いまつげはぴくりともせず、黒髪のカーテンのむこうに守られていた。
(そういえば、刹那の寝顔なんて、はじめてだな)
張り詰めた褐色の瞳がとじられるだけで、途端にその容貌は幼くなる。アレルヤがこども扱いすることを、刹那はひどくいやがるが、こうしていると彼はやっぱりこどもにしか見えなかった。見慣れない寝顔がかわいらしくて、しばらく眺めて、それからカーテンさえない窓に、目を移した。
空はこのうえない快晴だった。
地上でのミッションの後。そこが近いことを知っていて、立ち寄った。スメラギに「あの子、大丈夫かしら」とこれ見よがしな独りごとを呟かれ、ロックオンに「ついでに様子見てきてくれよ」などと頼まれれば、アレルヤには断ることなどできなかった。
隠れ家のマンションまで行く必要はなかった。アレルヤが訪れるのを知っていたのか(あるいは、警戒していたのか)、近くの公園に刹那は佇んで、近づくアレルヤをじっと見ていた。「今、行ってみようかと思ったんだ」と言えばばつが悪そうに俯く。……・警戒、していたのかもしれない。
ふたりで、公園のベンチに座った。アレルヤが「ここへは、よく来るのかい」と訊ねると、刹那はアレルヤを見もせずに「ああ」と返した。吐息のようなそれは、午後の喧騒にまぎれて聞こえにくかった。
ふたりの間には、並ぶというには不自然に、間隔が空いている。人ひとりか、ふたり分。会話の少なさも手伝って、傍目にアレルヤと刹那が知りあい同士には見えないだろう。だが、その間に立ち入ろうとする人間は、幸か不幸か、現れなかった。
ふたりの頭上、空はこのうえなく晴れ渡っている。
「いい天気だね」
「……ああ」
「空が青いね」
「……」
語彙のひどさに我ながら呆れる。沈黙を埋める上手なやりかたを、アレルヤは知らなかった。これがロックオンならもっとうまくやるのだろうし、ティエリアならば沈黙ごときに狼狽したりしない。
刹那の返答はまばらだった。自分の領域を他者に侵されることを嫌うこの少年が、実のないアレルヤの言葉の連なりに苛立っているだろうことは、容易に想像できた。
ちらりと、横目をする。刹那は相変わらず、アレルヤの方など見ていなかった。こころもち上がった頤。空を、見ているようにも見える。
帰ろうか、とアレルヤは思う。
一応様子はみた。ついでの用事だ、ヴェーダに報告するような、そんな任務じゃない。刹那にとくに変わったところはなさそうだし、元気そうではある。なによりこれ以上一緒にいて、あからさまに疎まれるような態度をとられ始めたら、落ち込んでしまいそうだった。
「……それじゃあ、僕」
「なぜ」
腰を浮かせかけたアレルヤに、刹那の呟きが届く。溶けるようなちいさな声と、それが疑問形であったことのふたつの意味で、アレルヤがえ、と訊き返すと、空を見上げた姿勢のままの、刹那の声が今度ははっきりと届いた。アレルヤに、きこえるように。
「何故、空が青いんだ」
それは地球に大気があって、空気中の分子や微粒子によって散乱された光の波長が── そんなことを口にしそうになって、思いとどまる。ものごころついたときには宇宙にいたアレルヤとはちがう、刹那は、地球で生まれ育った子どもだ。空が青いことを、あたりまえに知っている人間だ。
なのに、刹那はあたりまえのはずの色を、にせものなのではないかと、疑うように見上げている。彼がその目に映してきた空は、きっと青くはなかった。そしてそれが、刹那には、あたりまえの色だったのだ。
「刹那、食事、ちゃんとしてる?」
唐突に、口をついていた。言ったアレルヤ自身にも意外な言葉だった。流れを壊す唐突さに、刹那が思わずふりかえる。言っていることがわからない、そんな戸惑いを隠しもせずに、大きな赤い眼を瞬かせて。
── あ、刹那がこっち見た。
アレルヤの口元がようやく、つくり笑いでなしに、自然にほころんだ。
「ごはん、食べてる?」
「……必要な摂取はしている」
「簡単なものばかりで済ませてるんじゃないのかい」
「……」
唇を開きかけて止まり、刹那は言葉を失った。図星だろうか。クス、と笑い、アレルヤはベンチを立ち上がった。
「何か美味しいものでも、食べて帰ろう。……僕が奢るよ」
きょとんとした表情で瞬く刹那に、アレルヤは満足する。ロックオンほど上手にはできないだろうけれど、ほんの少しくらいは、自分だってお兄さんぶってみたいのだ。
食事の後、別れようとしたアレルヤを、意外にも刹那はひきとめた。
「泊まっていけばいい」
そう呟いた声はとてもちいさかったが、アレルヤはすぐに頷いた。うれしかった。部屋に戻ったところでなにをするでもなく、再び拙いことばを継いでゆくしかないのだとしても。
案の定、ふたりきりの部屋は静かだった。饒舌になった瞬間があったとしたら、それは就寝する前のわずかな時間だった。
「ベッドを使え」
「いいよ、ここで」
「そんな所で眠らせるわけにいかない」
「いいんだよ、僕はミッションも終わって、戻るだけだし。刹那はちゃんと休んで」
「だが」
「押しかけたのは僕なんだから」
「……泊まれと言ったのは俺だ」
「でも、ここは刹那の部屋なんだ、気をつかわないで。ほんとうに、僕はいいから」
ね、と笑って、刹那をベッドへ追いやるしぐさをする。からだには触れない。彼はそういう馴れあいを好まない。けれどアレルヤの気遣いは、結局刹那を不機嫌にさせてしまったようだった。表情が、硬くなる。
しまった。
刹那が俯いて、背を向けてしまうのを、アレルヤはなにも言えずに見守るしかなかった。落胆のしずくが、心に落ちる。
ああ、なんだって僕は、こう、下手くそなんだろう── しかし、アレルヤが自己嫌悪の底に沈みこむよりずっと早く、刹那はアレルヤに向き直った。赤い瞳が、アレルヤを見つめる。
「ならば、せめてこれを使ってくれ」
意識を浮上させ、瞼をひらいた。視界に入る光のいろが、いつもと違う。小波は、耳の中だけで鳴っていた。
……ああ、そうだった、ここは地球だ。
地球は── たくさんの人間がひしめき合うように生活するこの街も── 静かなものだ、とアレルヤは思う。宇宙とは全くちがうその静けさは、密集した気配がざわざわと蠢いていて、けれどやわらかくゆるんでいる。
床には薄い毛布が一枚敷かれているだけだった。起き上がると、重力に一晩みっちり押し付けられたからだが軋んだ。いてて、と口の中だけで呟き、まったく、と苦笑する。
床でいいと言い張ったのはアレルヤなのだから、文句も言えない。刹那の申し出を頑に受け取らなかった結果がこのざまだ。
言われたとおりにすればよかったかな、と、痛みのせいだけでなくアレルヤは後悔した。刹那が不器用なりに、差し出してくれた厚意を無碍にした罰がこれだというなら、いくらでも受けよう。悔いているのは、もし、刹那が
(気をわるくしていないといいんだけど)
……そんなことで。
刹那は自分のベッドで眠っている。
何度も寝返りを打ったのか、幾何学模様のような皺がたっぷりと寄ったシーツに埋もれるようにして。
アレルヤの身じろぎには、気づく様子もない。閉じた長いまつげはぴくりともせず、黒髪のカーテンのむこうに守られていた。
(そういえば、刹那の寝顔なんて、はじめてだな)
張り詰めた褐色の瞳がとじられるだけで、途端にその容貌は幼くなる。アレルヤがこども扱いすることを、刹那はひどくいやがるが、こうしていると彼はやっぱりこどもにしか見えなかった。見慣れない寝顔がかわいらしくて、しばらく眺めて、それからカーテンさえない窓に、目を移した。
空はこのうえない快晴だった。
地上でのミッションの後。そこが近いことを知っていて、立ち寄った。スメラギに「あの子、大丈夫かしら」とこれ見よがしな独りごとを呟かれ、ロックオンに「ついでに様子見てきてくれよ」などと頼まれれば、アレルヤには断ることなどできなかった。
隠れ家のマンションまで行く必要はなかった。アレルヤが訪れるのを知っていたのか(あるいは、警戒していたのか)、近くの公園に刹那は佇んで、近づくアレルヤをじっと見ていた。「今、行ってみようかと思ったんだ」と言えばばつが悪そうに俯く。……・警戒、していたのかもしれない。
ふたりで、公園のベンチに座った。アレルヤが「ここへは、よく来るのかい」と訊ねると、刹那はアレルヤを見もせずに「ああ」と返した。吐息のようなそれは、午後の喧騒にまぎれて聞こえにくかった。
ふたりの間には、並ぶというには不自然に、間隔が空いている。人ひとりか、ふたり分。会話の少なさも手伝って、傍目にアレルヤと刹那が知りあい同士には見えないだろう。だが、その間に立ち入ろうとする人間は、幸か不幸か、現れなかった。
ふたりの頭上、空はこのうえなく晴れ渡っている。
「いい天気だね」
「……ああ」
「空が青いね」
「……」
語彙のひどさに我ながら呆れる。沈黙を埋める上手なやりかたを、アレルヤは知らなかった。これがロックオンならもっとうまくやるのだろうし、ティエリアならば沈黙ごときに狼狽したりしない。
刹那の返答はまばらだった。自分の領域を他者に侵されることを嫌うこの少年が、実のないアレルヤの言葉の連なりに苛立っているだろうことは、容易に想像できた。
ちらりと、横目をする。刹那は相変わらず、アレルヤの方など見ていなかった。こころもち上がった頤。空を、見ているようにも見える。
帰ろうか、とアレルヤは思う。
一応様子はみた。ついでの用事だ、ヴェーダに報告するような、そんな任務じゃない。刹那にとくに変わったところはなさそうだし、元気そうではある。なによりこれ以上一緒にいて、あからさまに疎まれるような態度をとられ始めたら、落ち込んでしまいそうだった。
「……それじゃあ、僕」
「なぜ」
腰を浮かせかけたアレルヤに、刹那の呟きが届く。溶けるようなちいさな声と、それが疑問形であったことのふたつの意味で、アレルヤがえ、と訊き返すと、空を見上げた姿勢のままの、刹那の声が今度ははっきりと届いた。アレルヤに、きこえるように。
「何故、空が青いんだ」
それは地球に大気があって、空気中の分子や微粒子によって散乱された光の波長が── そんなことを口にしそうになって、思いとどまる。ものごころついたときには宇宙にいたアレルヤとはちがう、刹那は、地球で生まれ育った子どもだ。空が青いことを、あたりまえに知っている人間だ。
なのに、刹那はあたりまえのはずの色を、にせものなのではないかと、疑うように見上げている。彼がその目に映してきた空は、きっと青くはなかった。そしてそれが、刹那には、あたりまえの色だったのだ。
「刹那、食事、ちゃんとしてる?」
唐突に、口をついていた。言ったアレルヤ自身にも意外な言葉だった。流れを壊す唐突さに、刹那が思わずふりかえる。言っていることがわからない、そんな戸惑いを隠しもせずに、大きな赤い眼を瞬かせて。
── あ、刹那がこっち見た。
アレルヤの口元がようやく、つくり笑いでなしに、自然にほころんだ。
「ごはん、食べてる?」
「……必要な摂取はしている」
「簡単なものばかりで済ませてるんじゃないのかい」
「……」
唇を開きかけて止まり、刹那は言葉を失った。図星だろうか。クス、と笑い、アレルヤはベンチを立ち上がった。
「何か美味しいものでも、食べて帰ろう。……僕が奢るよ」
きょとんとした表情で瞬く刹那に、アレルヤは満足する。ロックオンほど上手にはできないだろうけれど、ほんの少しくらいは、自分だってお兄さんぶってみたいのだ。
食事の後、別れようとしたアレルヤを、意外にも刹那はひきとめた。
「泊まっていけばいい」
そう呟いた声はとてもちいさかったが、アレルヤはすぐに頷いた。うれしかった。部屋に戻ったところでなにをするでもなく、再び拙いことばを継いでゆくしかないのだとしても。
案の定、ふたりきりの部屋は静かだった。饒舌になった瞬間があったとしたら、それは就寝する前のわずかな時間だった。
「ベッドを使え」
「いいよ、ここで」
「そんな所で眠らせるわけにいかない」
「いいんだよ、僕はミッションも終わって、戻るだけだし。刹那はちゃんと休んで」
「だが」
「押しかけたのは僕なんだから」
「……泊まれと言ったのは俺だ」
「でも、ここは刹那の部屋なんだ、気をつかわないで。ほんとうに、僕はいいから」
ね、と笑って、刹那をベッドへ追いやるしぐさをする。からだには触れない。彼はそういう馴れあいを好まない。けれどアレルヤの気遣いは、結局刹那を不機嫌にさせてしまったようだった。表情が、硬くなる。
しまった。
刹那が俯いて、背を向けてしまうのを、アレルヤはなにも言えずに見守るしかなかった。落胆のしずくが、心に落ちる。
ああ、なんだって僕は、こう、下手くそなんだろう── しかし、アレルヤが自己嫌悪の底に沈みこむよりずっと早く、刹那はアレルヤに向き直った。赤い瞳が、アレルヤを見つめる。
「ならば、せめてこれを使ってくれ」