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HOLD ME NIGHT

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「ったあ…………ちっ…くしょお……」
るよりも、這って行った方が早いと諦める。傷だらけで、埃塗れで道路を這う自分がどれ程惨めで滑稽か。そんなことはどうでも良かった。……ナカジの声が聞きたい。ナカジの顔が見たい。
誰よりも近い距離に在るのだと確かめたい。彼がまだ自分の側にいるのだという現実を噛み締めたい。いつ、崩れ去ってしまうか分からない幸福だから、せめて今だけは、独占していたい。
「うー…っ………ごめん、ナカジ………」。
不躾にも、途中で会話を打ち切ってしまったことを詫びながらタローは、ずりずりと道路を這って行く。普通に歩けばたった十歩程の距離がこんなにも長いだなんて、思ってもみなかった。
しかし、それでも何とか距離を詰めてあと二メートル、もう少しで手が届きそうだというところで、あろうことか、携帯電話が宙に浮いた。

「……え、あっ!?」

路地から飛び出してきたシルエットは、闇夜に溶け込んで良く見えない。その黒い手がタローの携帯を取り上げてしまったのだ。タローは慌てて、携帯を手にした人影を見上げる。「それっ、俺のぉっ!」…だから、奪わないで。
彼と繋がれる手段を、彼を感じられる媒体を、自分から、

「分かっていて、拾ったんだ」
「…………! ナ、ナカ…ッ……」

奪ったのは、張本人のナカジだった。あまりに予想外な展開に、名前を呼ぶその声も震えてしまう。ピンチに陥ったこの時に、彼を想ったその時に都合良く現れるだなんて、誰が予想するというのだ。――まるで、英雄のよう。
パクパクと口を動かすものの、驚きのあまり声の出ないタローに、ナカジは拾い上げた携帯を寄越してくる。中腰になって「ほらよ」と手の平の携帯を差し出したナカジにタローは、ひたすらに呆気に取られていた。どうして、

「……して」

上手い具合に言葉が出てこない。
ただ、ナカジがここに現れた理由を知りたいだけなのに。

息を呑んで、ただナカジを見詰めることしか出来ずにいたタローを見詰め返したナカジは、苦々しい顔で嘆息した。
仰々しい仕草で肩を竦めて、「どうして、だと?」、紡ぎ出す声もわざとらしいまでに憎たらしい響きを含んでいる。

「通話の途中で、けたたましいブレーキ音がしたから鼓膜が破れる、と携帯を耳から離したら、窓の外から聞こえてきたブレーキ音と同調して聞こえて、疑問を抱いたんだ」
「……あ、そんなに……大きい音だった?」
無言で頷くナカジの背後に見える道路は、ナカジの自宅に面した道だった。気が付いてみれば目的地まであと二十メートルあるかないか、といったところで自分は事故に遭ったらしい。詰めが甘いと言おうか、何と言おうか。
「そうして通話に戻ったらお前の応答がないじゃないか。
……まさかとは思ったが、来てみて正解だったな。こんな近くで、こんな風体で野垂れ死んでいるとは」
「し、死んでなんかないよう! 俺ぇっ!」
剥れて抗議すると膨らませた頬に、ちりっ、と痛みが走った。「いてっ」と独りごちると、ナカジの表情が更に強張る。
折角会えたというのに、不機嫌そうなナカジにタローは少なからず失望した。……結局は、自分だけ。

「お前こそ、どうしてここにいるんだ」

携帯電話を受け取ろうと、傷だらけの手を伸ばした。
こんな、満身創痍になってまでも会いに来た、想いは。

「ナカジに会いに来る以外に、俺、こんなトコ来ないよ」
「………………」
「ラジオ、聴いてたら会いたくなったんだもん。
どうせなら驚かせようと思ってさあ、内緒で来て……驚いたでしょ? なんかあんまり、歓迎されてないみたいだけど」
「……この大莫迦者が!」

所詮自分だけの一方通行な想いなのかと、タローが落胆と共に携帯を握り締めようとした、ところでいきなり怒鳴られて、携帯電話も手の中から取り上げられて、度肝を抜かれる。何が、起こっているのか。咄嗟に状況を把握することが出来ず、タローは唖然として目の前のナカジを見上げた。
ナカジは月明かりにも分かる程、顔を真っ赤にして眉を釣り上げていた。反射的に身が竦む程の形相で、いきり立っている。「……この莫迦が」、吐き捨てるように、

「それで、一生会えなくなったらどうするつもりだったんだ…ッ……!」

泣き出すかのように、叫ばれたのは愚かな己への説教。
この一言に、またしてもタローは目を瞬いて驚愕する。一呼吸置いて、やっと思い至ったその可能性にハッとなって彼を凝視すれば、走って来た所為なのか未だに肩で息をしていることに気付かされた。
きっと、寿命の縮まる思いで駆け付けてくれたのだろう。携帯電話を握り締めた拳が、わなわなと震えていることにも。安堵した途端に怒りが溢れ出てきたのだろう。
軽率な自分の行いが、あともう少しで本末転倒の悲劇を招くところだった。遅れ馳せながら、それに気付いた。

「……ごめんなさい」
「御免で済んだら警察は要らない」
「ごめん。ほんっっっとーにゴメン……」

ごめんなさい、ごめんなさいとばかり繰り返すのは、胸が一杯になってしまって、それ以外の言葉が思い付かなくなってしまったからだ。その真意をナカジが察することはなかっただろうが、バカの一つ覚えのように謝罪を続けていると「もう良い」と声を掛けられた。
今度こそ、差し伸べられたのは携帯を持たない、空いた方の手の平だった。「立ち上がれるか」と訊ねてくる声が、寄越された手が、覗き込んでくる顔が、全部自分の為のものだと分かる。

『一生会えなくなったらどうするつもりだったんだ』

あのたった一言にだって垣間見えた、自分への想い。

それはきっと勘違いではないと確信して、タローはゆっくりと立ち上がった。「いでででで」と、何とも情けない声を何度も上げながら、掴んだのはナカジの肩と手の平。あれ程までに望んだものは、今、自分の手の中にある。更に自分の腕の中に在る彼も、自分を想ってくれていたのだと知って、涙が。出そうだった。不覚にも。――月が、

「って……おい、タロ」
「ごめん、ナカジ。少しだけ、一分だけこうしてて……」

 視界の端で歪みそうな位に、優しい夜を共に過ごす幸せ。

それを噛み締めるようにタローは、ナカジの肩に頭を預けて縋り付いた。不意に潤んだ瞳を誤魔化す為でもあるし、込み上げてきた想いをぶつけたいと、その為の手段でもあった。ぎゅうっと、傷の痛みを堪えて腕に力を込めれば、驚く程に緩く、温かく抱き返してくる腕がまた愛おしい。
――今はまだ、自分だけのもの。きっと、これからも自分の側に在るもの。そうだよね、ナカジ――…と聞き返したくても言葉にならない今は、ただ抱き締めるだけ。
彼を感じている時が生きていることを最も実感出来る時であるなら、離れるなんてとてもじゃないけれども出来やしない。……前言撤回、現在だけを大切にするのではなくて、未来も、この先もきっと、例え、この夜が終わっても、

「もう三分、良い?」
「…………好きにしろ」

ずっと君に、抱き締められていたいと願うんだ。
作品名:HOLD ME NIGHT 作家名:桝宮サナコ