ゆめたまご
その横に座った『ネウロ』が、心底呆れた顔でのぞき込んでいるが、ついさっき怖い目にあったばかりの弥子にはそんなことは、どうでも良かった。
弥子のこめかみに突きつけられたのは口径の小さな銃だった。弥子のこめかみにそれが押しつけられた瞬間に、ネウロが手で払い落としたので、実際弥子には傷一つない。
だが、すぐ目の前で鳴った大きな音、後に駆けつけた笹塚という刑事に死んだかも知れないと怒られたこと。それらにすっかり竦みあがり、更にここまでの混乱を思い出して、弥子はとにかく震えながら泣き始めた。
「全く、貴様の言い出した『食事』ではないか。なのに、何故泣く?」
「こわかったの! すっごくすっごくこわかったの!!」
「……銃がか? 銃でもナイフでも、今まで何度でも突きつけられたことがあるだろうに。何をいまさら怯えることがある?」
言葉は完全に呆れを含んでいたが、その手はさりげなく弥子の頭を撫で、背中を軽く叩いて、慣れないてつきながらに慰めようとしているようだった。
しかし、弥子の涙は一向に止まらず、今まで生きていて、一度も感じたことのなかった恐怖のままに泣きつづけた。
「もうやだあああ! こわいのやだぁ! あたし、おとななんかっ……ひっく、ならないっ……!」
「なんだと……」
「いたいっ!」
途端、『ネウロ』の声色が変わり、震える弥子の手に乗せられていた手にぎゅっと強く力が加わった。
無理矢理顔を上げさせられ、それに抗議するように涙目のままぎっと睨み付けると、『ネウロ』はそんな弥子以上に怖い顔をしていた。
驚いて、背けようとした顔を両手でぎゅっと捕まれ、最初の時のように、じっと弥子を見つめる。
そして、ひんやりとした目を一度見開くと、興味を失った顔で弥子から手を放した。
「貴様は……ヤコではないな。……いや、正確には、我が輩のヤコではない……か」
そうして、『ネウロ』は口をつぐみ、何かを考えるように顎に手を当てた。そうして周囲には、驚きで泣き止んだ弥子が必死に呼吸を整える、ひっく、ひっくという声だけが響いた。
そのうち、ネウロが何かに思い当たったのか、小さく目を見開いて、未だしゃくりあげる弥子を見下ろした。
「貴様……もしや、夢たまごを食べたのか?」
「ん……っ、たべた、よ?」
それがどうしたの、と続ける前に、黒手袋のひやりとした手が、火照った瞼を塞ぐように当てられた。
「ならば……泣くことはない。これは夢だ。醒めればそれで終わる」
「ん……っ!」
「醒めれば、きっと忘れてしまう」
「うん……」
『ネウロ』の言葉は、地面に降る八重桜の花びらのように、黒い手袋で覆われた真っ暗な視界に降りつもって行く。
そして、その一つ一つに、弥子は何も考えず、ただ素直に頷いて行った。
「貴様にしてみれば……酷い悪夢だったことだろうな」
「ううん、そんなことないよ!」
だけど、最後に自嘲ぎみに吐かれたその一つには、目の上から『ネウロ』の手が外れてしまうのも気にせず、強く強く首を振った。
「だって、ネウロがいたもん」
「……そう、か」
弥子の唐突な否定に不意を付かれたのか、弥子の右目からネウロの手が外れた。
そのおかげで、夢から醒める直前に、弥子はまた、『ネウロ』の深緑の瞳を見ることが出来た。
それは段々、弥子の視界を覆うように近づいて−ー最後に、唇の先にひんやりとやわらかな物が触れた。
「先ほど食したプレゼントの返礼だ。誕生日おめでとう、ヤコ」
目覚めた時、弥子はいつもの事務所のソファの上だった。寝返りをうって、見つめたガラステーブルには、お菓子の空き箱と広げられたノート。
どうやら、春の暖かさにやられて、宿題の合間にうたた寝していたらしい。
変な体制で寝ていたせいだろうか。なんだか変な夢まで見てしまった。
「ネウロ……」
「なんだ?」
ごしごしと目をこすりながら、いつもの通りトロイに座るネウロを振り返る。
そんなネウロをソファの縁に顎を置いて見上げたまま、弥子はにへらと笑顔を浮かべた。
「何だか変な夢見ちゃったよ。たぶん、小さな時の夢」
「それは……食ったからだろう」
「え、なっ、何を? てかあんた、私が寝てる間に一体何食わせたのさ!?」
いつもの様子で返ってくる歯切れの良い言葉にニヤリと笑いながら、ネウロは読んでいた雑誌を閉じ、弥子の問いへの返事を返した。
「夢たまご……を」