ゆめたまご
そう思った時、また、弥子の口が勝手に動き出した。
「もーっ! 寝起きに首とか締めないでよっ! 声、出なくなったらどーすんのさ?」
「黙れ、貴様がいつまでも寝ぼけているのが悪いのだ」
弥子の手が手が勝手に動き、ぺしっと、首に掛かった手を払うのと同時に、背後で不機嫌そうな男の人の声がした。
手がゆるんだのと同時に、頭を反らすようにして逆さまに振り返ると、見たことのない背の高い男の人が、真っ黒な机に腰掛けてこちらを見下ろしていた。
その人の後ろに広がった空よりも青い色をしたその洋服。友達の女の子よりも綺麗な顔と真っ白な肌に、黒い前髪と、男の人にしてはちょっと長い金の髪。
それらより何より弥子は、その深い緑色の目に見入ってしまった。菜の花みたいで、何だか美味しそうな色だ。
それに−ーこんな目の色の人、絵本でしかみたことがないのに、ずううっと前から何度もみたことがある気がするのも不思議だった。
そう思ったとたん、くーっと情けない音でお腹が鳴って、弥子はようやく、自分がずっと、頭をソファにもたせて反らしたまま、その男の人を見ていたことに気づいた。
(このひとが、『ネウロ』かなぁ?)
そう思った途端、ガッと頭が捕まれて、頭を反らした状態のまま、ぐいっと無理矢理ソファから立ち上がらされた。
「何をぼやぼやとしているのだ、行くぞ!」
痛いと声を上げようと思ったけど、思ったほど痛みがないことにびっくりして声が喉に詰まってしまった。途端。
「うぎゃあっっ!」
思い切り床に投げ込まれて、おでこと鼻先を強かに床に打ちつけてしまった。しかも、起きあがろうとした所をあっという間に頭を踏まれ、再びつっぷしってしまう。
「全く……今日を何の日だと思っているのだ……。時間もないというのに……」
おきがけてすぐ、知らない男の人から叩かれて、理不尽な言葉と仕打ちを受けている。
いつもの弥子だったら、怖いし痛いしで、思わずうわーんと泣き出してしまう所だが、びっくりし過ぎて涙も出てこなかった。
「全く、そう大人しいと気持ちが悪いな。……何か悪いものでも食ったか」
そのうちに、『ネウロ』は動かない弥子に飽きたのか、唐突に頭から脚をのけると、また弥子の頭を掴んで、じーっと顔をのぞき込んで来た。
弥子は頭を打ったせいでぼーっとしながら、さっきよりちょっとだけ、心配そうな色になった瞳を見上げていた。 そして唐突に、その目に写ってるのが、自分じゃないことに気づいた。
(あれ…このひと、わたしじゃない……)
緑色の目の中で弥子をぼんやりと見返していたのは、弥子よりずっとずっと年上のお姉さんだった。肩までの弥子の髪より短い髪をしていて、頭には弥子と同じ赤い髪留めを付けている。
だけど、知らないお姉さんの筈なのに、どこかで見たことのあるように感じられる。
そしてふと、その顔が、たまに鏡で見る自分の顔にそっくりなのだと弥子は気づいた。
(あぁそうか。これは、おとなになったわたしのゆめなんだ……。だから私の自由にならないんだ)
夢たまごのことを思いだし、そう気づいた時、黒手袋をはめた大きな手のひらが額に乗せられた。
その冷たいのが心地よくて、すっと目を細めると、それはついでのように弥子の頬を何度か辿って−ーゴンという鈍い音が頭蓋全体に響いた。
「いた、いたい……っ!」
「ふむ、どうやら熱はないようだな……」
弥子を抱えていた『ネウロ』が、急に弥子から手を放したのだ。
「では……こんな所でぼやぼやしている場合ではないな……なんせ今日は−ーだからな」
頭を押さえてじたばたと暴れる弥子の襟首を掴んで立ち上がると、『ネウロ』は弥子を掴んで引きずりながら、部屋の出口へと向かった。
急に手足の長くなった身体は、頭の位置が高いせいで、とても怖かった。まるで、竹馬か何かに乗っているように恐る恐るになってしまうし、手も足も自分のものでないようで、振り上げる加減がわからない。
それで最初、何度も転んでしまったのだが、べそをかく前に『ネウロ』が襟首を掴んで起こしてくれるので、実際に泣くことはなかった。
そのうち、歩幅が合わないことが面倒になったのかある時に襟首を掴んで起こされてからは、そのままずっと引きずられてしまったが、なぜだか余り嫌な感じはしなかった。
「ありがとう、ねうろ!」
そのうち、そうした乱暴な扱いにも慣れて来て、起きがけの自分をまねして、お礼を言ってみる余裕も出来た。
「全く……文句を言ったり礼を言ったり……貴様はよく分からんな」
帰ってくる声は相変わらずにしずかで、少しぞくっとする低い声だったけれど、余り嫌な感じはしなかった。
しかしそれも、目的地に着くまでの、ほんのわずかの間のことだった。
着いたのは、偶然にも、たまごを食べる前の弥子が居た公園だった。団地は、さっき見た時よりもぼろぼろになっていて、カーテンの掛かっていない窓も少し増えていた。
しかし、桜も、その下のベンチも、すこし木の背が伸びて、ベンチのペンキが剥げた以外はそのままだった。
何もかも、初めて見るものばかりで不安だった中での見覚えのある物たちに、弥子は思わず興奮して、なぜだか襟首を掴むのを止めて、自分の手を引き始めたネウロを見上げた。
「ネウロ、ネウロっ、わたし、ここにきたことあるよ! 時間が経つとこんなに変わるんだね!」
思わず、さっき来た時と全然違うよと続けそうになり、開いた左手で口を塞いで言葉を飲み込んだ。
パレちゃっただろうかと、恐る恐る見上げたが、立ち止まった『ネウロ』は、様子のおかしい弥子のことなど、もう気にしていないようだった。
「そうか……」
ただ、遠くを見回すように首を巡らして何かを探している。ぎらりと牙の並んだ口角を上げて、綺麗な緑の瞳を、先ほどよりぎらぎらとさせて。
(ネウロ……笑ってるのかな……それに涎……)
「隠れていないで、いい加減出て来たらどうです? そこに居ることは先生にはお見通しですよ」
たらりと垂れたそれを拭おうとした所で、『ネウロ』がそう声を上げ、弥子は手を引っ込めた。と、同時に、『ネウロ』が弥子の両肩を掴んで、自分の前へと押し出した。
すると、先ほどまで眺めていた、ベンチと桜の間に、ふと一人、人が現れた。
「……という訳で、その団地で起きた殺人事件。犯人はあなたしかいない! ……と、先生は考えていらっしゃるのです」
『ネウロ』が弥子の両肩を固定したまま、今までとは違う口調で話すのを、弥子は目の前の相手から目を反らすことも聞き返すことも出来ずに聞いていた。
「まぁ……そこまで分かってるなら仕方ないですよね」
そして、鞄を抱えたまま、その一連の言葉を聞いていたその人が、つかつかと弥子に歩み寄った。
そうして、ぼうっと立ったままの弥子の顔をのぞき込みながら、にっこりと笑い、そのこめかみに冷たい物を押し当てた。
「うあああああんっ! うわあああああん!!」
「……やかましい」
それから数十分後、弥子は、桜の下のベンチに座って、服の袖で顔を覆って力の限りに泣き続けていた。