どこまでも高く遠く
1.
「……かっとビングだ、オレ――――!」
威勢のいいその声は、皇の鍵の奥底にまで轟き渡ったのだった。
鍵の内部に存在する謎の建造物の中。アストラルはふよふよと宙に漂っていた。幾重にも連なる歯車の間を縫うように伝わって来た声に惹かれて、彼は内面に巡らせていた思考を外界へと向ける。
遊馬の口癖「かっとビング」。それは、外界で彼が何かしらの行動を起こそうとしているサインでもある。アストラルにとってはまたとない観察の機会だ。早速、アストラルは鍵の外に出てみることにした。
アストラルが遊馬の隣に現れたまさにその時、遊馬は全速力で駆け出したところだった。あまりの勢いに、留まる間もなくアストラルは遊馬に引きずられて、背後について行く格好になった。
遊馬の前方には何やらうず高く積まれた障害物が設置されている。遠くから見ると、それはまるでそびえ立つ塔のようだ。
床を交互に強く蹴り、腕を大きく振り上げて。彼の身長の何倍もある障害物にも怯まずに、遊馬はただひたすらに突き進む。障害物の手前に置かれた板を力強く踏み切り、天辺を目指して高く高く跳躍する。
刹那にアストラルが見たのは、ふわりと舞い上がる遊馬の背中。下界で息を飲んで見守るクラスメートたち。そして、眼前に迫り来る障害物の黒い影。
――実体を持たないアストラルは、障害物を苦痛なくすり抜けることができた。だが、遊馬の方はそうはいかなかったらしい。アストラルの真下で、ごんっ、と何かがぶつかった。ごとんと大きく揺れたその障害物は、上下に組み合わさったパーツを派手に巻き込んで、騒々しく崩れ去る。
「遊馬!」
悲鳴交じりの小鳥の声が聞こえる。障害物の崩落に紛れてしまったせいで、さっきまでそこにいたはずの遊馬の姿が見当たらない。
一体遊馬はどこに行ったのか。上空から探そうと試みるアストラルの身体が、前触れもなく逆さまに引っ繰り返った。
上下に反転した視界ではあったが、アストラルが遊馬を見つけ出すまでに時間はそれほどかからなかった。遊馬は、空洞になった土台に頭から突っ込んでしまっていた。外側からは、台形の箱から脚が一対生えているようにも見える。
遊馬のクラスメートたちが笑っている。大勢の前で見事に失敗をさらした遊馬を指差し、やはり駄目だったのだと笑っている。
「何やってんだよ、遊馬」
「だから、跳び箱二十段なんて、中学生に跳べっこないんだってー」
遊馬が挑んでいたあの障害物は、どうやら「跳び箱」という代物らしい。これに関しては後で遊馬に訊くつもりだったが、せっかくの情報なのでアストラルは記憶してみる。
「遊馬!」
笑うクラスメートたちをよそに、小鳥がいち早く遊馬の元へと駆けつけた。斜めに突っ立っている脚を引っ張りながら呼びかけているが、遊馬の方はどうやら完全に伸びてしまっているらしい。こうなると女子の細腕で引きずり出すのは困難だ。
「鉄男くん、手伝って」
「おう」
ひとしきり笑っていた鉄男が小鳥の求めに応じてやって来る。二人でせーのとばかりに引っ張ると、遊馬の身体は跳び箱からすぽんと抜けた。すると、引っ繰り返っていたアストラルの姿勢も元に戻る。
「おい、遊馬。大丈夫か?」
床にべったりと腰を下ろした遊馬は、跳び箱にぶつかった衝撃が未だに抜け切れておらず、右へ左へと頭をふらつかせている。目の焦点が全く合っていない。
「ひゃー、小鳥と鉄男がぐるぐる回ってらぁ……」
「うわ。重症だなこりゃ」
どこか間抜けた遊馬の返事に、鉄男が顔をしかめる。見かねた小鳥が遊馬の両頬に手を伸ばして、
「回ってるのは私たちじゃなくて、遊馬の目でしょ。ほら、しっかりして」
ふらついている遊馬の頭をきゅっと押さえた。宙をさまよっていた赤い目はそこでようやく焦点を定められるようになる。しかし、ちょうど視線の先にいたアストラルに気づくと、遊馬は急に不機嫌そうに目を細めた。足元がよろめきそうになりながらもどうにか立ち上がって、アストラルの元につかつかと近づいて来る。
「お前、どっから見てたんだよ」
〈君が走り出した辺りから、君の後ろで〉
アストラルが正直に答えると、遊馬は低くうなってぷいっとそっぽを向いた。どうやら彼は、アストラルに無断で観察されたのがこの上なく不満のようだ。仕方のないことなのに、とアストラルは思う。観察の中には、事前に通告すると意味をなさなくなる類のものだってあるのだから。
遊馬が崩した跳び箱は、人だかりの中央で崩れたまま放っておかれている。アストラルはあれを次に誰が跳ぶのかずっと待っていたが、その後遊馬に続く者は誰一人としていなかった。どころか、生徒たちは一斉に片づけに入ろうとしている。
どこかよたよたとした足取りで、遊馬は小鳥と鉄男を引き連れて跳び箱を片づけに行く。それをしばらく見ていたアストラルだったが、遊馬と離れられる範囲を超えた途端に、否応なしに彼の元に引っ張られてしまう。ずるずると引きずられていく途中で、女生徒が二人で話をしているところに出くわした。
「九十九くんって、いっつも変なことばかりしてるよね」
「そうね。あ、でも、あのかっとビングがないと、いまいち物足りないのよ。何か体育やったーって気になれないっていうか」
二人は顔を見合わせてクスクスと笑った。当の遊馬は倉庫で跳び箱を片づけているところで、ここからは遠く離れている。だからこそ、彼女たちは遠慮のない音量で話せたのだが、無論アストラルには丸聞こえだ。
やはり遊馬は相当変な人間らしい。同じ種族の目から見ても。結局のところ、この場では観察結果その二の内容を再確認するだけに留まった。
後になって、アストラルは遊馬に訊いてみた。
〈遊馬。あれは君たち全員に与えられた課題ではないのか?〉
「課題?」
〈君が跳ぼうとして失敗したものだ。あれは跳び箱というらしいな、私の記憶が確かなら〉
「ああ、あれか。跳び箱二十段。あれはオレがやりたくてやってるだけだよ。みんながみんな、あの高さを跳んでるんじゃないんだ」
〈そうだったのか。……私はてっきり、君が彼らより劣っているから笑われたとばかり思っていた〉
「何だよそれ。人のこと劣ってるって。言っとくけどな、みんなが跳んでる跳び箱五段、あんなのオレは簡単に跳べるんだぜ」
簡単に、のところをわざわざ強調して反論する遊馬。嘘だと思うなら今度証明してやる、と一人意気込んでいる。
遊馬は、同世代の人間の中では比較的身体能力が高い方だ、アストラルの知る限りでは。その能力は、日常生活のみならず、デュエルの最中にもいかんなく発揮されている。そんな彼ですら、あの跳び箱を跳び越えることができない。彼ができないということは、あの中の他の誰もできる人間はいないということになる。
〈君は実現不可能なものに挑戦しているのか? 失敗することなど分かりきっているだろうに〉
「――不可能? 失敗? そんなの関係ないさ」
底抜けの笑顔で、遊馬は何でもないことのように言ってのける。アストラルは自分の目と耳を疑った。あれだけの失敗をしでかした後だというのに、遊馬はそれでも希望を持ち続けていたのだ。
「……かっとビングだ、オレ――――!」
威勢のいいその声は、皇の鍵の奥底にまで轟き渡ったのだった。
鍵の内部に存在する謎の建造物の中。アストラルはふよふよと宙に漂っていた。幾重にも連なる歯車の間を縫うように伝わって来た声に惹かれて、彼は内面に巡らせていた思考を外界へと向ける。
遊馬の口癖「かっとビング」。それは、外界で彼が何かしらの行動を起こそうとしているサインでもある。アストラルにとってはまたとない観察の機会だ。早速、アストラルは鍵の外に出てみることにした。
アストラルが遊馬の隣に現れたまさにその時、遊馬は全速力で駆け出したところだった。あまりの勢いに、留まる間もなくアストラルは遊馬に引きずられて、背後について行く格好になった。
遊馬の前方には何やらうず高く積まれた障害物が設置されている。遠くから見ると、それはまるでそびえ立つ塔のようだ。
床を交互に強く蹴り、腕を大きく振り上げて。彼の身長の何倍もある障害物にも怯まずに、遊馬はただひたすらに突き進む。障害物の手前に置かれた板を力強く踏み切り、天辺を目指して高く高く跳躍する。
刹那にアストラルが見たのは、ふわりと舞い上がる遊馬の背中。下界で息を飲んで見守るクラスメートたち。そして、眼前に迫り来る障害物の黒い影。
――実体を持たないアストラルは、障害物を苦痛なくすり抜けることができた。だが、遊馬の方はそうはいかなかったらしい。アストラルの真下で、ごんっ、と何かがぶつかった。ごとんと大きく揺れたその障害物は、上下に組み合わさったパーツを派手に巻き込んで、騒々しく崩れ去る。
「遊馬!」
悲鳴交じりの小鳥の声が聞こえる。障害物の崩落に紛れてしまったせいで、さっきまでそこにいたはずの遊馬の姿が見当たらない。
一体遊馬はどこに行ったのか。上空から探そうと試みるアストラルの身体が、前触れもなく逆さまに引っ繰り返った。
上下に反転した視界ではあったが、アストラルが遊馬を見つけ出すまでに時間はそれほどかからなかった。遊馬は、空洞になった土台に頭から突っ込んでしまっていた。外側からは、台形の箱から脚が一対生えているようにも見える。
遊馬のクラスメートたちが笑っている。大勢の前で見事に失敗をさらした遊馬を指差し、やはり駄目だったのだと笑っている。
「何やってんだよ、遊馬」
「だから、跳び箱二十段なんて、中学生に跳べっこないんだってー」
遊馬が挑んでいたあの障害物は、どうやら「跳び箱」という代物らしい。これに関しては後で遊馬に訊くつもりだったが、せっかくの情報なのでアストラルは記憶してみる。
「遊馬!」
笑うクラスメートたちをよそに、小鳥がいち早く遊馬の元へと駆けつけた。斜めに突っ立っている脚を引っ張りながら呼びかけているが、遊馬の方はどうやら完全に伸びてしまっているらしい。こうなると女子の細腕で引きずり出すのは困難だ。
「鉄男くん、手伝って」
「おう」
ひとしきり笑っていた鉄男が小鳥の求めに応じてやって来る。二人でせーのとばかりに引っ張ると、遊馬の身体は跳び箱からすぽんと抜けた。すると、引っ繰り返っていたアストラルの姿勢も元に戻る。
「おい、遊馬。大丈夫か?」
床にべったりと腰を下ろした遊馬は、跳び箱にぶつかった衝撃が未だに抜け切れておらず、右へ左へと頭をふらつかせている。目の焦点が全く合っていない。
「ひゃー、小鳥と鉄男がぐるぐる回ってらぁ……」
「うわ。重症だなこりゃ」
どこか間抜けた遊馬の返事に、鉄男が顔をしかめる。見かねた小鳥が遊馬の両頬に手を伸ばして、
「回ってるのは私たちじゃなくて、遊馬の目でしょ。ほら、しっかりして」
ふらついている遊馬の頭をきゅっと押さえた。宙をさまよっていた赤い目はそこでようやく焦点を定められるようになる。しかし、ちょうど視線の先にいたアストラルに気づくと、遊馬は急に不機嫌そうに目を細めた。足元がよろめきそうになりながらもどうにか立ち上がって、アストラルの元につかつかと近づいて来る。
「お前、どっから見てたんだよ」
〈君が走り出した辺りから、君の後ろで〉
アストラルが正直に答えると、遊馬は低くうなってぷいっとそっぽを向いた。どうやら彼は、アストラルに無断で観察されたのがこの上なく不満のようだ。仕方のないことなのに、とアストラルは思う。観察の中には、事前に通告すると意味をなさなくなる類のものだってあるのだから。
遊馬が崩した跳び箱は、人だかりの中央で崩れたまま放っておかれている。アストラルはあれを次に誰が跳ぶのかずっと待っていたが、その後遊馬に続く者は誰一人としていなかった。どころか、生徒たちは一斉に片づけに入ろうとしている。
どこかよたよたとした足取りで、遊馬は小鳥と鉄男を引き連れて跳び箱を片づけに行く。それをしばらく見ていたアストラルだったが、遊馬と離れられる範囲を超えた途端に、否応なしに彼の元に引っ張られてしまう。ずるずると引きずられていく途中で、女生徒が二人で話をしているところに出くわした。
「九十九くんって、いっつも変なことばかりしてるよね」
「そうね。あ、でも、あのかっとビングがないと、いまいち物足りないのよ。何か体育やったーって気になれないっていうか」
二人は顔を見合わせてクスクスと笑った。当の遊馬は倉庫で跳び箱を片づけているところで、ここからは遠く離れている。だからこそ、彼女たちは遠慮のない音量で話せたのだが、無論アストラルには丸聞こえだ。
やはり遊馬は相当変な人間らしい。同じ種族の目から見ても。結局のところ、この場では観察結果その二の内容を再確認するだけに留まった。
後になって、アストラルは遊馬に訊いてみた。
〈遊馬。あれは君たち全員に与えられた課題ではないのか?〉
「課題?」
〈君が跳ぼうとして失敗したものだ。あれは跳び箱というらしいな、私の記憶が確かなら〉
「ああ、あれか。跳び箱二十段。あれはオレがやりたくてやってるだけだよ。みんながみんな、あの高さを跳んでるんじゃないんだ」
〈そうだったのか。……私はてっきり、君が彼らより劣っているから笑われたとばかり思っていた〉
「何だよそれ。人のこと劣ってるって。言っとくけどな、みんなが跳んでる跳び箱五段、あんなのオレは簡単に跳べるんだぜ」
簡単に、のところをわざわざ強調して反論する遊馬。嘘だと思うなら今度証明してやる、と一人意気込んでいる。
遊馬は、同世代の人間の中では比較的身体能力が高い方だ、アストラルの知る限りでは。その能力は、日常生活のみならず、デュエルの最中にもいかんなく発揮されている。そんな彼ですら、あの跳び箱を跳び越えることができない。彼ができないということは、あの中の他の誰もできる人間はいないということになる。
〈君は実現不可能なものに挑戦しているのか? 失敗することなど分かりきっているだろうに〉
「――不可能? 失敗? そんなの関係ないさ」
底抜けの笑顔で、遊馬は何でもないことのように言ってのける。アストラルは自分の目と耳を疑った。あれだけの失敗をしでかした後だというのに、遊馬はそれでも希望を持ち続けていたのだ。