どこまでも高く遠く
「かっとビングは、あきらめずに挑み続けることこそに意味があるんだから」
2.
何もない空間を蹴り、アストラルは空の天辺へと飛び立った。背筋をぴんと伸ばし、腕を両脇にぴったり付け、金と白の目で目標を見定める。
時刻はもう夕暮れ。日は西に沈みかけ、頭上に広がる空には大きな茜雲がぽっかりと浮かんでいた。それを目印にしてアストラルは飛翔する。この世界の重力をすり抜け、持てる力を全て出して、高く高く舞い上がろうとする。
羽根よりも軽いアストラルの身体。それは、人間が一跳びするには困難な高さをいとも容易く乗り越えてみせた。このまま行けば、更なる上空に上がるのもすぐだと思われたが。
〈……!〉
高度が十五メートルほどに達したところで、アストラルは貼り付けられたようにぴたりと止まった。いくら宙を強く蹴ろうとも、これ以上先へは上がれない。伸ばした手の向こうには、茜色の雲と空がどこまでも広がる。手の届かない遥か遠くに。
アストラルの身体に不調はない。むしろ、今日は絶好調な方だ。
腕組みをしてアストラルは考えた。――重力とは違う何らかの力が、アストラルを地上へと縛り付けている。
「アストラル――!」
地上から投げかけられる、聞き慣れた声。アストラルが見下ろした先はいつもの通学路である川沿いの道。そこでは遊馬が両腕をぶんぶん振り回してアストラルに呼びかけていた。
いつぞやに見た跳び箱。あれと高さは全く比べ物にならないが、それは何故かあの時の光景を彷彿とさせたのだ。
帰宅途中に見上げた夕空。そこに浮かぶ大きな茜雲を二人が見つけたのがそもそもの始まりだった。あれをつかめるかつかめないかの話になって、そこから「アストラルはどこまで飛べんの?」という話にまで発展したのだ。結果は見ての通りだが。
「どうだー、アストラル。もうちょっとだけ飛べそうか?」
〈駄目だ。これ以上は身体が上がらない〉
「そっかー。残念だな」
もういいから下りて来い、と遊馬はアストラルに向かって叫んだ。その場でぴょこぴょこと元気よく飛び跳ねながら。アストラルは、そんな彼の脚と自分の脚を見比べてみる。両者の脚の形は似ている。だが、遊馬の脚は、地面を蹴って歩いたり走ったり跳ねたりするための人間の脚だ。アストラルのとは役割が全く違う。アストラルの脚は、主に宙に浮いたり飛ぶ方向を定めたりするためのものなのだ。
腕組みを外さないまま、アストラルは中ほどまで下りて来る。あの茜雲は、風に運ばれて遠くの空に流れて行ってしまった。
「行っちまったな、あの雲。お前だったら届きそうだと思ったんだけど」
雲のあった場所を見上げて、遊馬が口惜しそうに言った。
〈恐らく、私自身に問題はない。試しに飛んでみたが、あれ以上高く飛ぶ分の力はまだ有り余っている〉
「え? じゃあ……」
〈『私は君から離れられない』、その法則が上方向に働いたということだろう〉
浮かんだ考えを率直に表すアストラル。少し高い場所に浮かぶ彼には、遊馬の表情がさっと曇ったことに気づけなかった。
「お前は、オレから離れたい?」
〈遊馬?〉
いつもと違う遊馬の声音を怪しんで、アストラルはよそに向けていた思考を彼に向けた。丸っこい赤い目が、ゆらゆらと揺らいでアストラルを見ていた。
「お前言ってたじゃん。『離れたいのだが離れられない』って。オレも、何度もお前に離れろ言ったし。だから……」
最後の方は、遊馬が口ごもってしまったせいで、明瞭な言葉にならなかった。
――現在、アストラルが置かれているこの状況。行先はもちろん、身体の上下すら遊馬に左右される不自由な日々。
何か重要な使命を帯びてこの世界を訪れたはずが、今では使命を果たすどころか使命の内容を忘れてしまっている。この世界に散逸した記憶を取り戻そうにも、行動の自由を制限されている身では、時間をかけて集めるしか手がない。
しかし、もし当初の予定通りアストラルが遊馬の身体を乗っ取れていたら、今ごろどうなっていたのか。
ナンバーズがこの世界に散らばらないのだから、ナンバーズハンターは多分存在しないだろう。だが、使命の最中にカイトのような強敵が現れる事態は十分あり得る。たった一人の状態で、あの時同様カイトに敗北しかけて恐怖を覚えてしまったとしたら。その次のデュエルは敗北するかそれ以前にまともに行えないかのどちらかだったに違いない。
勝てるデュエルしかしない。そんな制約から自由になった結果、アストラルは今ここに存在している。
数々の観察結果。大切な仲間。どんな困難でもあきらめない希望。それらは、遊馬と出会ってから得られたものだ。
〈君から離れられない、それは私に何をもたらすのか、完全な結論は未だ出ていない。それがいいことなのかそうでないのかも分からない〉
アストラルは、そう言い置いてから上空から下りてきた。遊馬といつも一緒にいる時の高度にまで。
〈しかし、今の私は以前の私と比べて自由であると言える。そんな気がする〉
「それって、えーと、つまりどういうことだよ」
さっぱり分からないという顔をしている遊馬に、アストラルは表情を和らげてこう続けた。
〈とどのつまり、私は君と一緒にかっとビングしたい。そういうことだ〉
アストラルの言葉に、赤い目が大きく見開かれた。しばし呆気に取られていた遊馬だったが、そのうちその唇から笑い声が漏れ出した。
「……へ、へへへ。何だ、そっか。そうなんだ。へへへへ……」
どうして彼は笑っているのだろう。アストラルは疑問に思ったが、声音に嫌なものは感じなかったのでそのままにしておいた。
遊馬は、ようやく笑いを納めると、アストラルには微か過ぎて聞こえない声で短くつぶやく。次に顔を上げた時には、
「だったら。お前、ちゃんとオレについて来いよ。じゃないと、お前なんかすぐに振り切っちゃうからな」
打って変わって挑戦的な笑みを浮かべていた。デュエルに臨む際によく見られるのと同じ笑みだった。
「んじゃ、そろそろ帰るか、アストラル。遅くなっちまったから、こっから一気に飛ばしてくぜ。かっとビングだ」
〈ああ〉
川沿いの道をひた走る遊馬。それに遅れずついて行くアストラル。
先ほど振り切る宣言をした遊馬だったが、走っている最中に彼は時折アストラルの方を振り返る。アストラルがついて来ていることを確認して、再び前を見据える。全速力で走り抜けているせいで、息は大分切らせていたが、それでも彼はとても楽しげだった。
日は完全に西に沈んだ。闇夜に覆われるまでの僅かな間、ハートランドの街並みは薄明に包まれていた。
観察結果その一三、「仲間がいれば、希望を信じることができる」。
希望を信じているからこそ、遊馬は挫けずに何度でもかっとビングできる。その希望の源になるのが、仲間という存在だ。
遊馬はアストラルを、自分の大切な仲間だと認めてくれた。それは同時に、遊馬に希望を与えられる存在になったということでもある。
これから先、更なる希望を遊馬に与えることができたなら。遊馬はどんな困難に遭ってもかっとビングし続けられる。そうすれば、遊馬とアストラルの前に世界は広がるのだ。
――どこまでも高く遠く、どこまでも自由に。