誤謬
うっかりしていた、と、まさか思ってもいないような表情を顔に貼り付けた男が、ちょっと15階まで戻るというので付き合うことにする。別に置いて帰ってもよかったのだが、ここでついて行ってしまうのが俺の駄目なところだという自覚はまあ、ある。15階というのは詰まるところ最上階で、そこまで行くにはエレベーターを使う他ない。1階エントランスホールを抜けて、エレベーター前まで歩いて行く。
幾ら国の記念日が近いとは言っても国政を止まらせる訳にはいかない。俺が今ここにこうしているのも、フランスとの間で行う仕事の打ち合わせが目的だった。ちなみにその会議自体はしばらく前に終わっている。……というより、丁度数分前、15階にある会議場で喧々諤々の会議を終わらせて、さあ帰るかとエレベーターで下ってきたところだった。それをこの男が、わざとらしい「忘れもの」を主張したために、間をおかず舞い戻る羽目になっている。
ごめんね、と軽薄な声で謝ってみせるので、そんな薄っぺらな謝罪ならいらないと鼻を鳴らす。書類鞄を小脇に抱え、腕時計に目を落とすとそろそろ日が暮れる頃合いだった。それから首を動かし、エレベーターの階数表示が動くのを見る。2機並んである内の、10階程度まで上昇していた1機が順調に下ってくる。そろそろか、と視線を落としたタイミングで、ねえ、と声を掛けられた。
「賭けをしない?」鼻歌でも歌いだしそうな、いかにも楽しげな声で言う男に怪訝な目を向ける。フランスはいつも通り、いっそ腹立たしい程泰然とした態度で俺を見つめてから、にっこりと笑ってみせる。そうして、気取った風に長い指を伸ばし、点滅を続ける階数表示を指し示す。
「あのエレベーターに乗って、15階まで行く、その間に、誰も乗ってこないことって有り得るかな?」
6階、5階、……3階。俺は軽く首を振る。そんな訳ない、と言下に否定した。高層ビル、エレベーターの使用頻度はかなり高いこの建物で、そんな都合のいいことが起きる可能性はいかばかりか。「まあ、そうかな」フランスも特に突っ込んではこない。じゃあ何で聞いた? こちらから聞き返そうかと思ったところで、エレベーターの到着を知らせるチャイムが鳴る。
降りてくる人々を避け、脇に寄った俺のすぐ傍に立ったフランスが、僅かに腰を屈めるようにして耳元に囁いてくる。じゃあ、坊ちゃんが乗ってくる方に賭けるなら、俺はその逆かな。「このエレベーターにはきっと、15階に着くまで、誰も乗ってこないよ」。
何を馬鹿なことを、と、言おうと口を開いたそのときには、フランスはもうエレベーターに乗り込んでいた。ボタンを押さえながら、早く、などと俺を手招いている。こうなると、釈然としないながらも自分も乗り込むしかない。まあ、賭けなどこの男の気まぐれ、特に意味などないのだろう。そう無理矢理に自分を納得させる。
15階のボタンを押して、エレベーターの扉が閉まる。賭けに自ら進んで乗った訳でなくとも、ああ言われてしまえばどことなく気になるのも事実だった。つい、機内上部で点滅するライトをぼんやり眺めてしまう。3階、4階。止まることなく静かに上昇していく箱の中には、本当に小さな呼吸音くらいしか響くものがない。
俺のすぐ横で立っているフランスが、不意に俺の名前を呼んだ。イギリス、と、掛けられたその声には特にこれといって変わったところはなく、俺もいつもの様に、何だ、と軽く返して顔をそちらに向けた。僅かに高い位置にある相手の顔を見る。フランスは上品に唇の端をつり上げて、ふわりとした笑みを浮かべていた。
急に腕を引かれて書類鞄を取り落としそうになる。危ない、と腋に力を込めて鞄を挟み直す間に、フランスの顔が大分近付いてきていた。えっ、と思ったときにはもう遅い。腕を掴まれ、フランスが立っていた側の壁に引き寄せられる。とん、とフランスの肩が壁に触れる音がした。
俺の手を掴んでいたはずの指はいつの間にか離れていて、気付くと骨張ったそれがこちらの頬に触れている。両頬を包み込まれて仰向き、唇の上を這っていく舌を知覚した。端から端へ、厚めの舌が舐め、触れて、形を確かめるように動いていく。
ど、どん、と音を立ててフランスの胸を叩くが、背をすっかり壁に預けてしまっている彼の体はびくともしない。それどころか反抗を咎めるように、更に強く抱きしめられてしまった。また、顔を背けるにも大きな手が頬をしっかりと固定しているからどうにも出来ない。諦めるしかないのか、と思ったところで、はっと我に返る。
エレベーターの、点滅するボタン。それをどうにかして確認したいと首を捻ろうとしたところで、動かない体に歯噛みする。今この機械は何階を通過した? 体感はそんなでもないが、それでも。それまでとは違い、叩くのではなく、引き離そうとする俺の動きに気付いたのか、フランスがふと唇を離して、笑ってみせた。
幾ら国の記念日が近いとは言っても国政を止まらせる訳にはいかない。俺が今ここにこうしているのも、フランスとの間で行う仕事の打ち合わせが目的だった。ちなみにその会議自体はしばらく前に終わっている。……というより、丁度数分前、15階にある会議場で喧々諤々の会議を終わらせて、さあ帰るかとエレベーターで下ってきたところだった。それをこの男が、わざとらしい「忘れもの」を主張したために、間をおかず舞い戻る羽目になっている。
ごめんね、と軽薄な声で謝ってみせるので、そんな薄っぺらな謝罪ならいらないと鼻を鳴らす。書類鞄を小脇に抱え、腕時計に目を落とすとそろそろ日が暮れる頃合いだった。それから首を動かし、エレベーターの階数表示が動くのを見る。2機並んである内の、10階程度まで上昇していた1機が順調に下ってくる。そろそろか、と視線を落としたタイミングで、ねえ、と声を掛けられた。
「賭けをしない?」鼻歌でも歌いだしそうな、いかにも楽しげな声で言う男に怪訝な目を向ける。フランスはいつも通り、いっそ腹立たしい程泰然とした態度で俺を見つめてから、にっこりと笑ってみせる。そうして、気取った風に長い指を伸ばし、点滅を続ける階数表示を指し示す。
「あのエレベーターに乗って、15階まで行く、その間に、誰も乗ってこないことって有り得るかな?」
6階、5階、……3階。俺は軽く首を振る。そんな訳ない、と言下に否定した。高層ビル、エレベーターの使用頻度はかなり高いこの建物で、そんな都合のいいことが起きる可能性はいかばかりか。「まあ、そうかな」フランスも特に突っ込んではこない。じゃあ何で聞いた? こちらから聞き返そうかと思ったところで、エレベーターの到着を知らせるチャイムが鳴る。
降りてくる人々を避け、脇に寄った俺のすぐ傍に立ったフランスが、僅かに腰を屈めるようにして耳元に囁いてくる。じゃあ、坊ちゃんが乗ってくる方に賭けるなら、俺はその逆かな。「このエレベーターにはきっと、15階に着くまで、誰も乗ってこないよ」。
何を馬鹿なことを、と、言おうと口を開いたそのときには、フランスはもうエレベーターに乗り込んでいた。ボタンを押さえながら、早く、などと俺を手招いている。こうなると、釈然としないながらも自分も乗り込むしかない。まあ、賭けなどこの男の気まぐれ、特に意味などないのだろう。そう無理矢理に自分を納得させる。
15階のボタンを押して、エレベーターの扉が閉まる。賭けに自ら進んで乗った訳でなくとも、ああ言われてしまえばどことなく気になるのも事実だった。つい、機内上部で点滅するライトをぼんやり眺めてしまう。3階、4階。止まることなく静かに上昇していく箱の中には、本当に小さな呼吸音くらいしか響くものがない。
俺のすぐ横で立っているフランスが、不意に俺の名前を呼んだ。イギリス、と、掛けられたその声には特にこれといって変わったところはなく、俺もいつもの様に、何だ、と軽く返して顔をそちらに向けた。僅かに高い位置にある相手の顔を見る。フランスは上品に唇の端をつり上げて、ふわりとした笑みを浮かべていた。
急に腕を引かれて書類鞄を取り落としそうになる。危ない、と腋に力を込めて鞄を挟み直す間に、フランスの顔が大分近付いてきていた。えっ、と思ったときにはもう遅い。腕を掴まれ、フランスが立っていた側の壁に引き寄せられる。とん、とフランスの肩が壁に触れる音がした。
俺の手を掴んでいたはずの指はいつの間にか離れていて、気付くと骨張ったそれがこちらの頬に触れている。両頬を包み込まれて仰向き、唇の上を這っていく舌を知覚した。端から端へ、厚めの舌が舐め、触れて、形を確かめるように動いていく。
ど、どん、と音を立ててフランスの胸を叩くが、背をすっかり壁に預けてしまっている彼の体はびくともしない。それどころか反抗を咎めるように、更に強く抱きしめられてしまった。また、顔を背けるにも大きな手が頬をしっかりと固定しているからどうにも出来ない。諦めるしかないのか、と思ったところで、はっと我に返る。
エレベーターの、点滅するボタン。それをどうにかして確認したいと首を捻ろうとしたところで、動かない体に歯噛みする。今この機械は何階を通過した? 体感はそんなでもないが、それでも。それまでとは違い、叩くのではなく、引き離そうとする俺の動きに気付いたのか、フランスがふと唇を離して、笑ってみせた。