誤謬
「なあに」
「……っ、ふ、らん、す」
「どうしたの? ――ああ、もしかして、不安?」
何をしゃあしゃあと。言う前にまた、唇を塞がれて黙り込む。それから再度舌を離して、フランスが殆ど吐息のような声で囁いた。坊ちゃんは誰か乗ってくるって思うんだものね。エレベーターに乗り込む前に言っていた、賭けの話だ。
「でも、大丈夫だよ」フランスの声が、聞こえたのと同時、体に軽い重力を感じる。あ、と思ったすぐ後に、音もなく扉が開く。伏せた瞼は上げられなかった。今が何階なのかも分からない。それでも、フランスの手が一瞬離れたことと、「失礼」短い言葉が発せられたこと、それだけは分かった。
恐らくは一瞬の、それでも俺にとっては気の遠くなる程長く感じる時間の後に、エレベーターはまた音もなく上昇を始める。フランスはよろけた俺の手を取って支え、平気? と首を傾げた。
平気じゃない。大丈夫じゃない。俺はふらふらとその場にしゃがみ込む。それを追うようにフランスが目の前に膝をついた。スーツが汚れる、と反射的に思う、そんな自分の思考に嫌気がさす。汚れたっていい。こんな奴、どうにかなってしまっていいのだ。平気な顔をして人を困らせて、それでも何も気にせず笑っているような、こんな奴。
フランスの手が俺の髪をやさしく梳くように動く。それに合わせて、彼は宥めるような声を出した。坊ちゃん、ほら、立って。もう着くよ。仕方ないなあとでも言わんばかりの台詞に噛みつきたくなる。誰のせいで、こんな無様な姿を晒していると思っているのか。全部、全部、何もかもお前のせいだ。
睨みつけようとして視線を上げた、その僅かな間に、視界の端で階数表示のランプが光って見えた。14階、……15階。静かに開く扉、その向こうに立つ、数人の影。フランスが俺の手を引いて立ち上がらせる、そのときに、今日2度目の「失礼」が耳に届いた。横目で見たフランスは右手の人さし指を唇に当て、エレベーター外の人物に片目をつぶって見せていた。
そうして、調子のいい男は俺の手を引いて歩き出す。振り向いて見たのは、無人エレベーターの中へぞろぞろと入っていく人の影。フランスの呟く声が聞こえる。「ほら、ねえ坊ちゃん、あのエレベーターには、15階に着くまで、誰も乗ってこなかったでしょう」。
(110830/仏英)